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  • 執筆者の写真高森明勅

明治天皇と帝国憲法

11月3日は「文化の日」。


祝日法では

「自由と平和を愛し、文化をすすめる」

という趣旨の祝日とされている。


だが、この日は元々、明治天皇のお誕生日。


だから明治時代には「天長節」という祝日だった。


大正時代に一旦、平日になったものの、

国民多数の要望を背景に昭和2年、「明治節」として復活した。


そうした経緯も、既に大方、忘れ去られているのだろうか。

明治天皇の数あるご事績の1つに帝国憲法の制定があった。

明治天皇は、侍従の藤波言忠(ことただ)を

わざわざヨーロッパに派遣して、シュタインの君主機関説に

基づいた憲法の考え方を学ばれた。

明治21年5月8日から同年12月17日まで、

枢密院で皇室典範・帝国憲法・議院法などが

審議された際には、毎回欠かさず臨御(りんぎょ)された。


この「憲法会議」にいかに明治天皇が

真剣に臨まれたを如実に示す逸話がある。


憲法起草委員の1人で、枢密院書記官として毎回、

会議に出席していた金子堅太郎の証言だ。


「(明治21年)11月12日の会議当日であつた。

侍従があわただしく入つて来て、

伊藤(博文)議長に耳打ちした。

その時は、顧問官が、

折角(せっかく)議論をたたかはせて居る最中であつた。

議長は席を立つて、陛下に何事か内奏された。

…陛下は、相変わらず、泰然自若(たいぜんじじゃく)

として、御席につかれて居る。


会議がすんで…陛下は、玉座(ぎょくざ)から御立ち遊ばされた。


そこで議長は一同に向かつて宣告せられた。


『さて、只今(ただいま)入御(じゅぎょ)

あつたのは、皇子(おうじ)殿下がコウ去遊ばされた

為である。先刻侍従が其(そ)の報告をした時、

余(よ)は議事を直(ただち)に止めて入御遊ばされ

まするか、如何(いかが)取計らひませうかと申し上げ

た処(ところ)、陛下は、此(こ)の1条が議了する迄は

つづけよと御沙汰(ごさた)になつたにより、

討論をつづけ、可否を採(と)り、

それから議事のすんだことを申し上げ、

只今入御に相成つた次第である』


…此の日は、昭宮(あきのみや)ミチ仁親王が

コウ去(亡くなる事)遊ばされたのである。


陛下は、皇子のコウ去は皇室の私事である。


憲法会議は、国家の公事である、

公事の前に私事はないといふやうな

有難い思召(おぼしめし)があつた為、

議事の一片(ひとかた)づきする迄、

玉座を御立ち遊ばされなかつたものと拝察する」

(同「憲法会議」『明治大帝』


〔『キング』昭和2年11月号付録〕所収)

昭宮は明治天皇の第4皇子。


前年8月22日に側室の園祥子(そのしょうこ)

から生まれ、1歳2ヶ月を過ぎたばかりの可愛い

さかりだった。


『「明治天皇紀」談話記録集成』に収められた、

大正天皇の生母、柳原愛子(なるこ)の証言によると、

明治天皇はお子様がご病気の際は、

「又わるいそうやな」と言われる位で

(明治天皇は京都弁)、表面上は余り悲しみを

お見せにならないものの、悪化が伝えられると、

「黙つてござつて『ハー』と溜息(ためいき)を

御つき遊ばず」お姿を拝見していた。


この時は、心中の悲しみを暫し圧(お)し殺し、

「泰然自若として」議事をお聴きになっていたのだろう。


「欽定(きんてい)」憲法とは、

単なる形式だけの話ではなかった。

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