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  • 執筆者の写真高森明勅

「建国記念の日」を設けたい

更新日:2021年2月9日


「建国記念の日」を設けたい

戦後の日本古代史学の顕著な特徴の1つは、古事記・日本書紀への冷淡かつ否定的な態度にあった(近年はやや違う傾向も現れている)。その基礎となったのは、徹底した史料批判に基づく古代史研究で、戦前に弾圧されていた津田左右吉博士の学説だ。


津田博士は戦前、「天皇を冒涜する学者として右翼から攻撃されて大学を追われ、その著書が発禁処分となるような」(真辺将之氏)仕打ちを受けていた。ところが、その津田博士が

占領下、祝日法(昭和23年)によって「紀元節」が廃止されて間もない頃、「『建国記念の日』を設けたい」と題した文章を公表されている(『心』昭和24年7月号)。


恐らく、「建国記念の日」という祝日名を公共の場で提案した、殆ど最初の例ではあるまいか。同論文が、建国を記念する祝日を新たに制定する「動きを呼び起こすきっかけになった」という見方もある(真辺氏)。


但し、津田は紀元節をそのまま復活させようという考え方ではない。「歴史的事実に背いたことを人に信ぜさせようとするものであるかのごとき感じがあるというならば、必ずしもこの日(2月11日)に拘泥するには及ばず、むしろそれを避けたほうがよいでもあろう」と。


しかし、以下のような発言は概ね共感できる。


「(祝日法によって)改定せられた祝日としては、1月1日はいうまでもなく、天長節(4月29日)も名が変りながらもとのままであるのに、紀元節は全く無くなっている。紀元節は建国を記念する意味のものであるから、それが無くなったのは、日本の国家の存在が軽んぜられているように見えて、国民たるわれわれは、ひどくこころさびしい」


「『憲法記念日』というものが新たに設けられ、改定憲法の公布の日をそれにあてている(正確には施行の日)が、憲法の改定とても国家があるからのことであるから、こういう記念日を設けながら、建国の記念日を廃したのは、すじのたたぬことである、或(あるい)はものごとの軽重本末をわきまえぬしかたである」


「日本の国民たるわれらは…日を定めてその誕生を記念することによって、国民としての自覚を年々新たにしたいものである。もちろん歴史的事実としての建国の日はわからぬ。…しかし、上代のことにはたしかな月日の知られないことが多い。例えばシャカムニ(釈迦牟尼)の誕生もキリストのもその例であって、それを4月8日としたり12月25日としたりするのは、何(いず)れも歴史的事実ではない。…けれども大せつなのは、シャカムニやキリストの出世を、何かの日において、記念することであって、その日をこれらの日とするところにさしたる意味があるのではない」


「歴史的事実としての建国の日はわからなくとも…重要なのは、建国を何の日かにおいて記念することであって、それが何の日とせられるかは、大きな問題ではない。…だから、それを明治時代に定められた紀元節のように日本紀(日本書紀)の記載に従って2月11日としても差支(さしつかえ)は無い」


「『建国記念の日』は…もとより建国を記念する意義のものであるが、記念するということは、その記念を現実の生活において生かしてはたらかせることが伴わねばならね。というよりも、そうするために何ごとかを記念するということが考えられるのだ」


「国家としての長い歴史をもっている日本の国民は、その歴史のはじめ、国家のはじめ、国民生活のはじめを、何の日かにおいて記念し、そうすることによって現在の国民生活を

堅実にし旺盛にし、明るい希望を未来にかけて正しい方向にこれから後の歴史を進めて行く覚悟を、年ごとに新しくするところに、その意義があるべきである」


「(天皇誕生日を慶賀することと建国記念の日を祝うことが相応じるべきなのは)建国のはじめから一系の皇統をつがれた、わが『日本国の象徴』であられる天皇を、われわれ国民の天皇として、美しくもりたててゆくべき国民の責務感を…固める意義が…(天皇誕生日への)慶賀の気分にこもっている…からである」


「国際間の交渉はますます密接になってゆき、世界が一つになる傾向もいよいよ強められてゆき、それにつれて国家の構成なり機能なりもまた変わってゆくであろうし、変えてゆかねばならぬでもあろうが、国家の存立していることは明らかな現在の事実であるのみならず、未来においてそれの無くなることは考えられず、また無くしようとすべきでもない」


「われわれ日本の国民は、この日本の国家を、清く正しく美しく、世界の間に立ててゆく責務を、国民みずからとしても、世界に対してもっている。…そうして国民の決意と努力とによってそれが為し得られることの自信をもたねばならぬ。われわれ日本の国民はわれわれの祖先が長い歴史によって形づくって来たこの国家の国民であることをよろこびとし、その意味において建国記念の日を設けて、そのよろこびをあらわすと共に、それによってこの責務感を年ごとにますます強めてゆきたいと思う」


この文章が書かれて17年後に、祝日法が改正されて(津田博士が名付けた通りの)「建国記念の日」が設けられた。それが政令によって、他ならぬ「2月11日」(元は紀元節だった日)と決まったのは、やはり重大な意味を持つ。


この日に決まった理由は、明治以来の由来と、当時の国民が最もこの日を望んだ、という事情による。しかし、津田博士がこの日に託された「現在の国民生活を堅実にし旺盛にし、明るい希望を未来にかけて正しい方向にこれから後の歴史を進めて行く覚悟を、年ごとに新しくする」


「日本の国家を、清く正しく美しく、世界の間に立ててゆく…責務感を年ごとにますます強めてゆきたい」という熱情は、忘れられがちなのではないか。

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