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  • 執筆者の写真高森明勅

国家を超える「公(おおやけ)」はあり得るか?

「公(おおやけ)」=公共社会の範囲をどう考えるか。 小林よしのり氏の『戦争論』には次のような記述があった。 「一見『世界のために』の方が了見が広くていいように思えるが… そもそも『世界』って『公』たり得るだろうか?」 「我々の持つ公共心が、どのくらいの範囲まで 通用するべきと考えているかと言えば、やっぱり日本国内だろう。 『公』とは『国』なのだ」 こうした発言に対して、かつては強い反発があった。 やはり小林よしのりはゴリゴリのナショナリストだ、 危険なナショナリズムの鼓吹者だ、と。 今ならどうか。リベラルの立場で護憲派の重鎮とされる、 憲法学者の樋口陽一氏は、次のように述べておられる。 「1つの公共社会が成立するためには、

責任を負う主体と責任を問う主体がなくてはいけない。 国境を越えて絶えず流動する人々の中での間でそれが成立するとは考えにくい」 「危機に臨んでそれに対処するのは、 今のところ、『国家』という名前で呼ばれている公共社会です。 …規模の大小は別として1つの区切りを持った公共社会というものを 基本に置かないで、1つの社会像を考えることは無理ではないか」 (『いま、憲法は「時代遅れ」か』) 「責任を負う主体と責任を問う主体」。 これは、予想し得る将来をも含めて、 「国家と国民」という関係を超えた形ではあり得ない。 ならば、国家を超える「公」を想定するのは、現実的ではあるまい。

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