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男系派が依拠する継体天皇のルーツ応神天皇の出自を巡る疑惑

  • 執筆者の写真: 高森明勅
    高森明勅
  • 13 分前
  • 読了時間: 5分

男系派が依拠する継体天皇のルーツ応神天皇の出自を巡る疑惑

「男系男子」限定派が強調する「万世一系は万世男系」という主張を支える論拠の1つが、

継体天皇。


応神天皇から(子が1世、孫が2世…という数え方で)5世の子孫という遠い血縁でも男系だから即位できた、と。


確かに皇統譜上、歴代天皇の中で天皇からの血縁が最も遠いのは継体天皇だった。

しかし肝心な5世の系譜について、『古事記』も『日本書紀』も断片的にしか記していない。

そこで皇統に繋がる人物だったか疑問が出されていた(継体新王朝説)。


だが『上宮記』に引用される「一云(あるにいわく)」には、父方·母方(男系·女系)双方の系譜が詳しく収められている。その系譜では、確かに応神天皇から男系で5世の子孫となっている(女系では垂仁天皇の8世の子孫)。


同書の成立年代については議論があるものの、一先ず推古天皇朝ないし藤原宮址出土木簡(694年〜710年)より古い頃と見てよかろう(黛弘道氏·水谷千秋氏など)。

更に、隅田八幡神社人物画像鏡(503年)の銘文にある「男(孚)弟王」は即位前の継体天皇(ヲホド又はフト王)に比定できる(平野邦雄氏·山尾幸久氏など)。


この時点で既に王号を称していることから、皇統に繋がる人物と認められていたことが分かる。

そもそも皇統に繋がる人物でなければ、“入り婿型の皇位継承”(角林文雄氏·吉田孝氏など)を

可能にした、直系の皇女である手白香皇女との婚姻は認められなかっただろう(前之園亮一氏)。


しかし、継体天皇のルーツとされる応神天皇は果たして男系で皇統に繋がる人物だったのか、どうか。勿論、応神天皇は亡くなった時の年齢が110歳(日本書紀)とか130歳(古事記)とされるように、伝説的な要素が強い。


歴史学の分野では、新王朝の始祖とする見方(河内王朝説)や、実在性に疑問を投げかける見方も多かった。しかし、継体天皇が皇統に繋がるルーツとなった人物がいた事実は疑えない。


その人物は先の『上宮記』に引く「一云」では「凡牟都和希(ホムツワケ)王」であって、応神天皇に当たる。『記』『紀』に描かれる応神天皇像に多く虚構が含まれていることは改めて述べるまでもないが、応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳の存在もあり(白石太一郎氏など)、その核となった人物の存在まで否定するには及ばないだろう。


但し、仲哀天皇の子とされている血縁関係には疑問も残る。『日本書紀』では、仲哀天皇の熊襲征討に当たって神功皇后が神憑りして神託を受ける場面で、神から「たった今、皇后は初めて懐妊された」と告げられる不思議な設定になっている。


しかも同書の記述では、仲哀天皇が崩御されて丁度「十月十日」後に応神天皇が生まれたことになっている(仲哀天皇の崩御=同天皇9年2月5日、応神天皇の誕生=同年12月24日)。

これに対して「あまりにも作為的」との疑念が出されている(高木彬光氏·安本美典氏など)。


『古事記』でも、神功皇后による新羅親征が終わるまで出産を遅らせる記事があり、仲哀天皇の子であれば生まれるはずがないタイミングで出産した可能性を覗かせる。仲哀天皇の崩御の原因も不審だ。


『古事記』では、神功皇后による(天照大神と住吉三神の)神憑りの最中に、神託を疑い急死されたことになっている。『日本書紀』でも神託を疑い、神功皇后が神憑りをされた翌年に、突然に体力が弱り萎えられて、亡くなったとする。


一方、『書紀』には次のような異伝もある。「天皇、親❲みずか❳ら熊襲を伐❲う❳たむとして、

賊の矢に中❲あた❳りて崩❲かむあが❳りますといふ」と。何と、天皇ご自身が戦死されたというのだ。


皇室にとって最も痛ましい「天皇の戦死」という異伝を、敢えて創作する理由はない。恐らくこれが事実であって、そこから、あり得ない形での天皇の崩御を納得しやすいストーリーで説明する為に、当時の感覚として“神罰”という連想が働き、他の物語が生まれて行ったと想像できる。

ここで注意すべきは『住吉大社神代記』に載せる所伝だ。


「是❲ここ❳に(神功)皇后、(住吉)大神と密事あり。〈俗に夫婦の密事を通はすと曰❲い❳ふ〉」(〈〉内は割注)これは機微にわたる不思議な記事だ。『書紀』に載せる神託に“懐妊”を告げる内容があったのと、一脈通うものを感じさせる。


或いは、皇后と住吉信仰を担う関係者との間に「密事」があったことを示唆するのだろうか

(『八幡宇佐宮御託宣集』にも類似の伝えがあるが成立年代の下った文献なのでここでは取り上げない)。いわゆる神婚説話も、もとは実態的な発生基盤があったらしいことが、『類聚三代格』などから察せられる。


それに加えて、上記の仲哀天皇の崩御と応神天皇誕生のタイミングの不自然さも勘案すると、

畏れ多いが応神天皇は男系では皇統に繋がらず、専ら神功皇后(開化天皇から4世又は5世の子孫とされる)つまり女系を介して繋がっていた可能性も浮かび上がる。


もとより史実の究明は至難ながら、もし皇統について「男系」だけを絶対視していたら、古くから朝廷との関係も浅くない同大社において、皇統の尊厳への重大な疑惑を招きかねない、こうした所伝が語られることはなかったのではあるまいか。


しかも『神代記』は、もともと公的性格を持つ文献だったとの見方もある(田中卓氏)。

もしそうであれば尚更だろう。



▼追記

1月2日、例年通り皇居での新年一般参賀に加わり、そのまま靖国神社に参拝。

近年では珍しく、それぞれ独立した子供やその家族達も一緒だった。


靖国神社では大塚海夫宮司にもお会いした。

大塚氏は私が防衛省統合幕僚学校で「歴史観·国家観」講座を担当した当時の学生の1人だった。

防衛省退官後はジブチ大使も務めた異色の経歴だ。

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