『月刊正論』7月号の読売提言への弱々しい抵抗特集立ち読み
- 高森明勅
- 17 分前
- 読了時間: 5分

『月刊正論』7月号に読売提言への“か弱い”抵抗特集。
元々読む気はなかった。大体、レベルの察しがつくので。
そんな暇があったら、他に優先的に時間を割くべき事柄は多い。
例えば我が愛犬の豆太郎(ダックスフント)と大福(柴犬)=2匹合わせて“豆大福”の散歩とか。
しかし、その中で私が名指して批判されていると親切に教えてくれた人がいた。そこで書店で特集ページだけを立ち読みしたら、失礼ながら予想以下。
お粗末過ぎて、読み終わった時点で、私の頭の中では全て反論が終了していた。
そのような場合、私の悪い癖かも知れないが、もう反論を書く意欲が無くなる。
放っておいても、まともな読者ならこんな言説を誰も真に受けることはあるまい。
そう思ってしまう。恐らく、ただ怠け者で無精なだけだろう。
しかし今回は、わざわざ教えて貰った。
なので、簡単にでも取り上げておこう。
憲法学者で日本大学名誉教授の百地章氏の一文に、私の名前が登場する。そこには不思議な文章が並んでいる。
①「皇室典範第2条によって、今上陛下の次は秋篠宮殿下、その次は悠仁親王殿下に確定しており、『愛子天皇』は法律上あり得ない。つまり違法である」
しかし、改めて言うまでもなく、皇室典範は国会の議決によって、憲法が定める「世襲」の「象徴天皇」制という枠内であれば、いかようにも変更が可能だ。世襲には男性も女性も、男系も女系も含まれるというのが、政府見解であり、学界の通説でもある。ならば、第1条の「男系の男子」を削除することは「違法」でも何でもない。国会の見識によって、いつでも可能になる。
それが削除されたら、典範第2条はそのままでも第1号に「皇長子」(=天皇の最初のお子さま)を置いているので、皇長子でいらっしゃる敬宮殿下が普通に次の天皇として即位されることになる(秋篠宮殿下や悠仁親王殿下は「皇兄弟及びその子孫」だから後ろから2番目の第6号)。
「法律上あり得ない」と言うのであれば、ちゃんと根拠となる条文を示すべきだった。しかし、それを探しても、どこにも無いので残念。
②「立皇嗣の礼が行われ、『次の天皇は皇嗣·秋篠宮である』旨、陛下が内外に宣言されている。
それ故、『愛子天皇』は今上陛下のお心に反するはずだ」天皇陛下のおことばを、“違う内容”に書き換えるのは、感心できない。正しくは以下の通り。
「本日ここに、立皇嗣宣明の儀を行い、皇室典範の定めるところにより文仁親王が皇嗣であることを、ひろく内外に宣明します」誰が読んでも誤解する余地はない。
「文仁親王が皇嗣であること」を宣明されたおことばだ。
「次の天皇であること」を意味する表現はどこにも無い。
秋篠宮殿下=皇嗣であって、秋篠宮殿下=次の天皇ではない。「陛下のお心」を持ち出しながら、おことばの趣旨をすり替える非礼は、慎むべきだろう。
皇室典範では、直系の皇嗣(皇太子·皇太孫)ではない傍系の皇嗣(秋篠宮殿下はまさにこちらに該当する)の場合、畏れ多くいが皇室会議の議決による皇籍離脱の可能性を認めている(第11条第2項)。
皇嗣=次の天皇が確定しているのであれば、このような制度設計は、あり得ない。
だから特例法では、皇籍離脱の可能性を排除する為に、わざわざ「皇室典範に定める事項については、皇太子の例による」(第5条)という条文を、大急ぎで追加する必要があった。
しかし、この追加条文によって、今後の典範改正の範囲に限界が設けられる訳では勿論ない。
なので、同条によって「次の天皇」が秋篠宮殿下で確定することもない。
又、立皇嗣の礼は国事行為として行われている。つまり「内閣の助言と承認」(憲法第3条)によるものだ。端的には、「内閣の意思」による行事だ。そこから直接に「陛下のお心」を拝そうとする態度にも、方法上の無理がある。
③更に、養老律令(及び大宝律令)の「継嗣令」の“女帝の子”解釈について「学問上、すでに決着済み」と言いながら、何故か小中村清矩の「女帝考」(明治18年頃!)を根拠にしているのは、意図を測りかねる。
明治以降、学問の進歩は無かったのだろうか。近年の研究成果をいくつか紹介する。
「律令本来の父系帰属主義からすると、子は父の身位を継ぐものであった。ところが、母が帝位にあることで、その父系帰属主義に則った身位の継承に変更を加えたのである。
…所生子は父の身位を継ぐのではなく母の身位を継ぐとする
…つまり女帝も男帝と区別なく、皇位継承者の再生産を担当するという面を有していた」
(成清弘和氏『日本古代の王権継承と親族』平成11年、岩田書店)
「大宝令文は『女帝』の出現を想定し、女帝の子、兄弟を皇位継承の可能性がある『親王』と規定していることは重要であり、女帝の実子の即位を規定したものである。この点は、いわゆる女帝中継ぎ論では説明できない」(仁藤敦史氏『古代王権と支配構造』平成24年、吉川弘文館)
「『女帝の子もまた同じ』ということは、女帝の子も『親王』として皇位継承資格を持つことを意味する。すなわち、日本令の本註は、女系天皇の即位も容認する規定なのである」(義江明子氏『女帝の古代王権史』令和3年、ちくま新書)
学問研究はやはり明治時代から平成·令和へと、より深められていた。心強い。
④「高森氏は、第43代元明天皇(女帝)から第44代元正天皇(女帝)への皇位の移行を『女系継承』と強弁する。しかし、元正天皇は母が元明天皇だが父は草壁皇子であり、男系の女子として即位している。それ故、この主張も誤りだ」
後世の男尊女卑の観念から時代錯誤な早呑込みをすればその通り。
しかし当たり前ながら、同時代の法的根拠に基づいて結論付けなければならない。
元正天皇の即位当時の基本法は大宝律令だ。
先に引用した中でも指摘されていたように、「継嗣令」の“女帝の子”の本註によって、シナ律令本来の父系=男系帰属主義から変更が加えられた。女性“天皇”と男性“皇族”の間に生まれた子は、
父系=男系でなく母系=女系に帰属する。
だから当然、即位しないまま皇族として亡くなった草壁皇子ではなく、天皇として即位された元明天皇の子と位置づけられたと理解するのが普通だろう。まさに「女帝の子」として即位されたことになるので、紛れもなく“女系天皇”だった。
ちなみに、草壁皇子が没後に称揚され、後追い的(!)に“草壁系皇統”なる観念が形成されるプロセスについては、義江氏『古代王権論』(平成23年、岩波書店)『日本古代女帝論』(平成29年、塙書房)など参照。その際、配偶者だった元明天皇の即位が大きな画期となっている事実は見逃せない。
(続く)
追記
「女性自身」(6月3日公開)にコメントが掲載されました。