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  • 執筆者の写真高森明勅

今なら民衆に当たる公民、百姓を「おおみたから」と訓む理由


今なら民衆に当たる公民、百姓を「おおみたから」と訓む理由

古代史料を見ると、現在の一般民衆に当たる人々に対して「公民」「百姓」「人民」などの語が用いられている。


公民や人民は、近代の翻訳語と誤解している人がいるかも知れないが、そうではない。公民は、天皇の詔などの定型句としても、出でくる。百姓は、百官がすべての官人=役人を指すように、全ての姓を持つ者=非隷属民、つまり公民とほぼ重なる。


公民概念と百姓概念の違いについて学問的な議論もあるが(例えば大町健氏『日本古代の国家と在地首長制』)、ここでは立ち入らない。それよりも、公民の語がシナ文献にほとんど現れないことが指摘されているのが興味深い(吉田孝氏『律令国家と古代の社会』)。


シナでは公は官に近く、民は私に近く、その意味で公と民は対立的な関係にあって、熟語を作りにくい、と。その後、漢籍での公民の用例を検出した論文も現れているが、この指摘の価値自体はさほど低減していないはずだ。


ところで公民と百姓の概念的な重なりは、どちらも和訓では「おおみたから」と訓まれていた事実からも分かる。ここでは、その「おおみたから」の語義について触れておこう。


この語の語義については『日本国語大辞典』第3巻に4つの説を挙げている。

それらのうち、近年は喜田貞吉氏などが唱えた「天皇の治下にある農民でオオミタカラ(大御田族)の義」という説が有力という(族はヤカラ)。


これに対して、本居宣長『古事記伝』、狩谷棭斎『箋注倭名類聚抄』などの大御宝=天皇の財宝説を補強する史料を紹介している短文を見かけた(三谷芳幸氏「オオミタカラと天皇」『日本歴史』令和3年12月号)。以下の通り。


①『日本書紀私記』(丙本)の垂仁天皇段では「百姓」の語に「御宝」の注記がある。


②『日本書紀』の写本でも、民衆を意味する「億兆」「元々」「民庶」「万族」などに「御財」の訓が付けられている(図書寮本·前田本)。


③壬生本『西宮記』第17軸(いわゆる非西宮記)や『江家次第』第18·改元事に、検非違使が囚人の赦免する際に「公御財(オオミタカラ)として、調物(ミツキモノ)を備え進(たてまつ)れ」と宣したことが見えている。


④寛仁2年(1019)2月の祈年穀奉幣の宣命に「農は民の天なり、民は国の宝なり」とあった(『朝野群載』巻12·内記)


⑤長暦3年(1039)7月16日の荒祭宮(皇太神宮第1別宮)の託宣に「天下四方の人民は、みな皇太神宮の御宝なり」とあった(『太神宮諸雑事記』第2)。


これらの史料を紹介した三谷氏自身は結論を保留されているが、大御宝説を強める材料であることは確かだろう。


▼追記

来月発売の『歴史人』10月号に拙稿が掲載される。

神武天皇から孝明天皇までを僅か14ページに収める(しかもビジュアル系の雑誌なので図版が豊富)という編集部からの無茶なリクエストに応えた。

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