戦争が「総力戦」の段階に突入して以来、敗戦はストレートにその国の君主制の廃止に繋がるようになった。
第一次大戦では敗戦国だったドイツ、オーストリアや、戦争処理を誤ったロシアなどの君主制が滅んだ。第二次大戦でもイタリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの君主制が消滅している。
ドイツの政治学者レーベンシュタインは次のように指摘する。
「今日ではもはや王朝は敗戦を切り抜けることはできない。たとえ王朝が敗戦に責任がない場合ですら、君主制は贖罪羊(スケープゴート)なのであり、荒野に追いやられるだろう」(『君主制』)と。
そうした事情ゆえに、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で裁判長を務めたオーストラリアのウェッブは後年(昭和44年)、敗戦を乗り越えて君主制を守り通しただけでなく、退位すらしないで在位を貫かれた昭和天皇について、以下のように述べた。
「神だ。あれだけの試練を受けても帝位を維持しているのは、神でなければできぬ」(児島襄『天皇と戦争責任』)と。
わが国では、敗戦によって皇室が滅びるどころか、戦災によって荒廃した皇居の清掃奉仕に携わりたいと、自発的に名乗りを挙げる国民が現れた。
最初に手を挙げたのは宮城県栗原市(当時は栗原郡)の若者達だ。これが現在も続けられているボランティアによる皇居勤労奉仕の起こりだった。これは、敗戦後も多くの国民が皇室への敬愛の気持ちを喪っていなかった事実を示す、象徴的な出来事だ。皇居勤労奉仕について、昭和天皇が次のような御製(ぎょせい)を詠んでおられる(昭和20年)。
戦(たたかひ)に
やぶれしあとの
いまもなほ
民のよりきて
ここに草とる
私自身、学生時代に4回、皇居勤労奉仕に加わらせて戴いた。4日間のご奉仕中、皇居で昭和天皇と香淳皇后、さらに赤坂御用地で当時は皇太子·同妃でいらした上皇·上皇后両陛下のご会釈(えしゃく)を賜る光栄に浴した。
この場合のご会釈とは、公式の拝謁(はいえつ)と異なり、非公式にお会い下さること。
その時、我々は清掃用の作業着のまま。拝謁ならあり得ないはずだ。
ある時、まだ幼くいらした黒田清子(さやこ)様(当時は紀宮❲のりのみや❳殿下、現在は伊勢の神宮の祭主❲さいしゅ❳を務めておられる)がお出ましになって、一同に落ち着かれたご様子で「ありがどう」とお声をかけて下さる珍しい場面があった。
恐らくかなり異例な出来事だったのではないか。
その後、長いブランクを挟んで、平成30年に高森稽古照今塾を受講している20代·30代の社会人を中心に勤労奉仕団が結成され、私も足手まといながら一団員として参加できた。翌年にご譲位を控えられた上皇陛下と上皇后陛下からご会釈を賜った。
この時、わが教え子で団長を務めたS君(男性)へのご下問の際、畏れ多いが上皇后陛下とわがS団長との間に、塾で学んでいる日本神話を巡り、いささかユニークなご下問と奉答が繰り返される珍事があった。
最後は、上皇后陛下がご自身のお鼻の前に拳を添えられ、神話に登場する鼻が長いサルタヒコのふりまでされた光景は、忘れ難い。S君本人にとって、実に得難い体験だったはずだ。
このご奉仕では、翌年にご即位を控えられ、当時は皇太子でいらした天皇陛下のご会釈も、賜った。幸い、翌年の令和元年にもご奉仕がかない、ご即位から間もない天皇陛下のご会釈を再び賜ったが、まだ皇太子でいらした昨年とは、はっきりと雰囲気が変わっておられて、僭越(せんえつ)ながら目を瞠(みは)る思いだった。
この頃、私は国内外のテレビ·新聞などに出演やインタビューを求められるなど、何かと慌ただしい時期だった。そうした平成の末年と令和の初年に続けて、皇居(及び赤坂御用地)内での清掃奉仕によって、心を清める機会を与えられたことは、まことに尊い経験だった。
しかしその後、コロナ禍の為に宮内庁は皇居勤労奉仕の受け付けをしばらく見送った。その間、我々はやむなく勝手に皇居周辺の清掃を行ったりしていた。
しかし今年からやっと、勤労奉仕の受け付けがほぼ平常に戻った。そこで早速、高森塾第10期(令和4年9月〜同5年8月)でリーダーを務めてくれたSさん(女性)が団長となって奉仕者を募り、9月か11月かいずれかでのご奉仕を願い出た。しかし残念ながら、選に漏れてしまった。
改めて来年のご奉仕を目指すしかない。
…と、落胆していた矢先に、こんなニュースが飛び込んで来た。
「天皇皇后両陛下と長女の愛子さまは(9月)7日午前、皇居内を清掃するボランティアと面会された。…当初面会は、陛下おひとりの予定だったが、皇后さまと愛子さまも同席された」(FNNプライムオンライン9月7日、午後1時24分配信)
何と勤労奉仕団へのご会釈に、天皇陛下「おひとり」でなく、皇后陛下と敬宮殿下もご一緒にお出まし戴いたのだ。皇后陛下はご療養中なので、しばらくお出ましを控えられることが多かった。にも拘らずこの時、皇后陛下にお出まし戴いたということは、それだけご体調が回復して来られているということだろうか。もちろん、ご無理はくれぐれも控えて戴きたいし、油断は禁物ながら、嬉しいニュースだ。しかも、敬宮殿下もご一緒とは。
昭和以来の通例で言えば、ご会釈へのお出ましは天皇·皇后、皇太子·同妃が一般的だ(先に触れた紀宮殿下のケースは例外中の例外だろう)。それを考えると、この度の敬宮殿下のお出ましは、ご自身に国民へのお優しいお気持ちがおありで、更に両陛下のご長女としてのお立場をはっきりと自覚されているからこそ、実現したと拝察できる。有難い。
両陛下と敬宮殿下のお出ましがあった“9月7日”は、我々が申請していた奉仕期間とも重なるはずなので、もしそれが宮内庁によって認められていれば、私もその場に居合わせることができたかも知れなかった…。
なお、現時点で皇位継承順位が第1位ということで「皇太子」と“同等”と見られたりする秋篠宮殿下におかれては、令和になり、さらに「立皇嗣の礼」を終えられた後も、勤労奉仕団へのご会釈はなさっておられないようだ。これは何故か。
「皇太子」とはご自身のお立場が“違う”と自覚されてのことか、それともご多忙ゆえか、それとも他に理由がおありなのか。今のところ、私は承知していない。
皇居勤労奉仕を詠まれた昭和天皇の御製をもう一首、謹んで掲げさせて戴く(昭和20年)。
をちこちの
民のまゐきて
うれしくぞ
宮居(みやい)のうちに
けふ(今日)もまたあふ(会う)
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