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  • 執筆者の写真高森明勅

「天皇」たる矜持を示された平成時代の中国ご訪問を振り返る(2)

更新日:2022年12月27日


「天皇」たる矜持を示された平成時代の中国ご訪問を振り返る(2)

先日、平成4年に当時の宮沢喜一内閣が無理やり実現させた上皇陛下の中国ご訪問に先立つ記者会見(同年10月15日)でのご発言を、紹介した。


この時の中国ご訪問の日程中、最も重要だったのは、中国の楊尚昆国家主席が主催した晩餐会での上皇陛下のおことばだ。


日本のメディアは、上皇陛下が先の戦争への謝罪にどこまで踏み込むか、の一点に関心を集中させていた。


私はそんなことよりも、わが国とシナとの古代以来の歴史的な関係に言及される場合、「天皇」が歴史に登場する以前、すなわちシナ中心の国際秩序だった冊封(さくほう)体制に組み込まれていた「倭国」の時代について、どのように述べられるかが気になっていた。


そもそも「天皇」という地位は、歴史的には先ずシナへの名分上の服属関係を解消し、東アジア世界において国家としての独立自尊の立場を表示する意義を担った(拙著『歴史から見た日本文明』ほか参照)。


その天皇ご自身が歴史上初めてシナ=中国を訪れられたのが、この時。なので、そこでのご言動には「天皇」という古代以来の地位そのものの尊厳がかかっていた。にも拘らず、メディアにそのような問題意識はほぼ皆無だったと言ってよいだろう。


しかし、上皇陛下ご自身はもちろん違った。


晩餐会でのスピーチでは、次のようにお述べになっている。


「貴国と我が国との交流の歴史は古く、特に、7世紀から9世紀にかけて行われた遣隋使、遣唐使の派遣を通じ、我が国の留学生は長年中国に滞在し、熱心に中国の文化を学びました」


冊封体制下の時代は「歴史は古く」という一般的説明の中に埋め込まれ、何気ない「特に」という語を挟んで、一挙に冊封体制から離脱した後の歴史、独立自尊の「天皇」時代における主体的な「学び」へと、話題を進めておられた。 「天皇」というわが国の尊厳を体現されるべきお立場に照らして一切、隙がない。それが全く不自然さを感じさせない文脈の中で語られていて、実に見事としか申し上げようがない。


しかも、上皇陛下は次のような話題も取り上げられた。


「今世紀(20世紀)に入ってからは、貴国の有為の青年が数多く我が国を訪れるようになり、人的交流を含む相互の交流は一層活発なものとなりました」


これは日清戦争(1894年~1895年)で清が日本に敗れた後、かの国がやっと近代化の必要に目覚め、わが国に留学生が来るようになった事実を踏まえておられる。その留学生の数が顕著に増えたのが、日露戦争(1904年~1905年)におけるわが国の勝利後、まさに「今世紀に入ってからは…」ということになる。


古代には遣隋使・遣隋使などを通してわが国がシナ文明から学んだけれど、近代に至ると逆に、

明治維新によってアジア・アフリカ圏で近代化の先頭を走るわが国に、(日清戦争での敗北もあり)「貴国」の方が学ぶことになりましたね、というご指摘だった。


もっと踏み込んで言えば、シナにおける近代革命の胎動が日本への留学生グループから始まった事実も想起させる。公平であり、日本の立場を格調高く表明されていた。


この時の「おことば」は、外務省が原案を用意し、首相官邸と宮内庁の意向も加味して最終的に

(ご訪中自体の閣議決定とは別に、おことばの内容についての)閣議決定がなされた。


おことばの作成については、当時の藤森昭一宮内庁長官が次のような証言をしている。


「(上皇陛下は)それこそ一生懸命。かつてないご努力の様子がうかがえた。訪中の閣議決定から出発まで2ヵ月もない多忙のときに、密度の濃い努力をされていた」(朝日新聞、平成4年10月24日付)


上記のプロセス中、上皇陛下のお考えは手続き上「宮内庁の意向」という形で組み込まれ、それが上皇陛下ご本人のお考えであることから、最大限尊重されて、かなりストレートにおことばに反映された、と拝察できる。


この時のご訪中を巡っては、さらに紹介したい貴重な逸話がある。(続く)


追記

12月23日、プレジデントオンラインの連載「高森明勅の皇室ウォッチ」が公開された。


同日、「The Tokyo Post」に拙稿「『皇位の世襲』と『門地による差別禁止』の関係を整理する」が公開された。

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