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  • 執筆者の写真高森明勅

再開される「新年一般参賀」が現在のような形に定着するまでのいきさつとは?



毎年、1月2日には長年、皇居で「新年一般参賀」が行われてきた。

皇居・宮殿のベランダに天皇・皇后両陛下が他の皇族方とご一緒にお出ましになり、広く国民から祝賀をお受けになる。


令和になってからは、令和2年に行われ、6万8千710人の国民が参賀に詰めかけたものの、それ以降はコロナ禍の影響で実施が見合せられてきた。


来年は、なおコロナ禍に配慮して参賀人数を大幅に制限しながらも、やっと再開されることになった。当日は、午前・午後あわせて6回のお出ましが予定されている。昨年に成年を迎えられた敬宮(としのみや 愛子内親王)殿下が初めて参賀の場にお姿を見せられるので、それを楽しみにしている人も多いのではないだろうか。


参賀の人数は1回ごとに抽選で選ばれた1600人程度に絞られる。これに対し、事前申し込みをした人々の数は10万2千人あまりだったようで、倍率は10.6倍だったという(申し込みの締め切りは11月18日だった)。狭き門だ。


一般参賀という行事が今のような形で定着するまでの流れを整理すると、およそ以下のような7つのステップを踏んできたことが分かる。


ステップ1。

一般の国民が皇居の中に入って参賀できるようになった(昭和23年1月1日から)。


ステップ2。

参賀のために皇居に参入した国民の前に昭和天皇がお姿を見せられた(同年1月2日から)。


ステップ3。

香淳皇后のお出ましも恒例化する(昭和26年1月1日から)。


ステップ4。

新年一般参賀の日取りがそれまでの1月“1日”から1月“2日”に変更され、それが固定化する(昭和28年から。最初の昭和23年だけ例外的に1月1日・2日の両日行われた)。


ステップ5。

皇后以外の皇族方もお出ましになり、それが恒例化する(昭和35年から。ただし4月29日の「天皇誕生日一般参賀」では前年から)。


ステップ6。

現在の宮殿の東側の広場(東庭 とうてい)で参賀が行われるようになる(昭和44年から)。


ステップ7。

昭和天皇がマイクを通して参賀者に対して「おことば」を述べられるようになる(昭和57年から。ただし天皇誕生日一般参賀では前年から)。


一般参賀の際に、天皇がマイクを通して直接、国民にお声をかけて下さることになった最初は

昭和天皇が80歳になられた昭和56年の「天皇誕生日一般参賀」の時のこと。


「今日は誕生日を祝ってくれてありがとう。大勢の人が来てくれてうれしく思います。これからも皆が元気であるよう希望します」


これが一般参賀での初めての「おことば」だった。参賀に集まった人々はシーンとして天皇のお声を拝聴した。そしておことばが終わると一斉に「万歳」を唱えた。この時、私もその場にいて、お声を謹聴した。あの時の情景は今も鮮やかに甦(よみがえ)ってくる。


宮内庁当局は当初、おそらく80歳のお誕生日かぎりの特例と考えていたのではないだろうか。昭和天皇のおことばのために、職員がスタンドマイクをわざわざ運んでいた。


しかし、その翌年の新年一般参賀でも天皇はおことばを述べられた。


「新年おめでとう。今年もよい年であることを希望します」


これ以降、おことばは恒例化し、マイクもスタンド式から備え付けマイクへと変更される。以上のような経緯で、コロナ禍前の新年一般参賀の形が定着することになった。


コロナ禍で参賀がいったん行われなくなる前、令和に入って最初の新年一般参賀(令和2年)での天皇陛下のおことばは次のような内容だった。


「新しい年を迎え、皆さんと共に祝うことをうれしく思います。その一方で、昨年の台風や大雨等(など)により、いまだ御苦労の多い生活をされている多くの方々の身を案じています。本年が、災害のない、安らかで、良い年になるよう願っております。年の始めに当たり、我が国と世界の人々の幸せを願います」


来年の新年一般参賀では、事前申し込みが必要な宮殿東庭での参賀とは別に、午前9時30分から午後3時30分まで宮内庁庁舎前の特設記帳所で、事前申し込みなしでも記帳を行うことができる。坂下門から参入して、桔梗(ききょう)門、大手門、乾(いぬい)門のいずれかから退出するというコースが用意されている。


私も国民の一人として記帳の列に加わるつもりだ。



追記

ここに抜き出したのは、プレジデントオンラインで12月23日に公開予定の「高森明勅の皇室ウォッチ」の一部だ。各ステップごとの詳しい説明はそちらを読んで欲しい。結構、一般には知られていないエピソードも取り上げたつもりだ。

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