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  • 執筆者の写真高森明勅

「天皇」という君主の称号の成立年代を巡る簡潔な学説整理

更新日:2022年11月21日


「天皇」という君主の称号の成立年代を巡る簡潔な学説整理


わが国独自の君主号(君主の称号)は「天皇」。それはいつ成立したのか。

先ず学界での一般的な整理を見ると、近年の専門辞書の説明は以下の通り。


「(19)80年代は持統朝を発展させた天武朝説が確立し…主流となっていく。…ただし、90年代に入ると対外関係から天皇号の出現を捉えようとする、推古朝説を再評価する傾向も強まる…

(“再評価”というのは元々、推古朝説が通説だった為―引用者)。…これに対して通説的位置の天武朝説からの反論はあまりない。天武朝説と推古朝説は平行したまま交わっていないのが現状である」(河内春人氏「『天皇』・『日本』号の成立論争」、木村茂光氏監修・歴史科学協議会編『戦後歴史学用語辞典』平成24年)


上記の整理では一応、天武朝(天武天皇の時代)に成立したと見るのが「通説」とされているようだが、推古朝(推古天皇の時代)に成立したという異説に対して「反論」ができていない状況として整理されている(ちなみに私が学術論文において初めて推古朝説を提起したのは平成4年=1992年)。


通説の最大の論拠は、唐の高宗(こうそう)が「皇帝」という正式な称号の他に個人的な尊号として「天皇」を名乗ったのが674年(=天武天皇3年)だったことだ(この点を最初に指摘したのは渡辺茂氏「古代君主の称号に関する二、三の試論」〔『史流』8号、昭和42年〕だった。


なお、高宗の「天皇」号が正式な君主号ではなく個人的な尊号に過ぎなかったことは、坂上康俊氏「大宝律令制定前後における日中間の情報伝播」〔『日中文化交流叢書 第2巻 法律制度』平成9年〕を参照)。


もしそれより早くわが国で「天皇」号が使われていたら、「中国から見て東夷の国王の称号である『天皇』号を、高宗は承知のうえでこれを採用したことになる…中国人の自尊心がこれを承認するはずがない」(渡辺氏)-という考え方だ。


しかし、この推論には決定的な弱点がある。


唐で高宗(尊号「天皇」)の正妻(則天武后)の「天后」号が採用されるより“前に”、周辺国においてそれを先行使用していた事実だ(『隋書』西域伝、吐谷渾〔とよくこん〕条)。これは、シナ王朝にとって自ら公認していなければそれは“存在しない”に等しいことを示す(これこそ当時の「中国人の自尊心」!)。


わが国の「天皇」号も、シナから公認されていない点で事情は同じだ。よって、日本で「天皇」号が先行使用されていても、唐が遅れて(しかも一代限りの個人的尊号として)使い始める障害にはならない。


このように見ると、天皇号の上限年代を天武天皇3年(つまり推古天皇の時代より数十年後)とする根拠は確定的ではないことになる。


しかも、日本がシナ王朝を中心とする国際秩序である冊封(さくほう)体制から離脱したのが推古天皇の時代である事実は、疑う余地がない。それまで使われていた「王」という君主号は、冊封体制に組み込まれ、わが国の君主がシナ皇帝より“下位”の立場を余儀なくされていた段階に対応したものだった。


ならば、冊封体制から自覚的な離脱を果たした推古天皇の時代にあって、無自覚に「王」号をそのまま使い続けることは考えにくい。


現に、推古天皇15年(607年)の第2次遣隋使の小野妹子が持参した国書では(「王」号ではなく)「天子」号を使用していた事実を、シナ史書である『隋書』倭国伝の記事によって確認できる。


翌年に同じく妹子が差遣された第3次遣隋使の国書に「天皇」とあったことは『日本書紀』だけに見えているので(後の『聖徳太子伝暦〔しょうとくたいしでんりゃく〕』や『釈日本紀〔しゃくにほんぎ〕』などの記事はオリジナリティを持たず『日本書紀』に基づく)、果たして同時代の表記か疑う学者もいるが、日本と隋との前後の交渉過程を丁寧に分析すれば、信憑性はかなり高いと見るべきだ(堀敏一氏『東アジアのなかの古代日本』〔平成10年〕など参照)。


傍証史料として「天寿国繍帳銘(てんじゅこくしゅうちょうめい、推古天皇30年=622年頃の成立)」などを挙げることも可能だ(同銘文には「天皇」と「大后」が併存するなど古態をとどめており、後世の捏造とは考えにくい)。


逆に、「天皇」号の成立を敢えて天武天皇の時代まで降(くだ)らせて想定する場合、わが国が推古天皇の時代に冊封体制から離脱して以降、天武天皇の時代までの間に一体どのような君主号を用いていたのか、説明に窮するのではあるまいか。


そもそも、高宗の尊号「天皇」を手本としてわが国で「天皇」号を初めて使うようになったのであれば、その正妻は「(シナにおいて「天皇」と対応する)天后」を称していたはずなのに、

わが国ではしばらく以前からの「大后」がそのまま用いられ、後に(恐らく飛鳥浄御原令〔あすかきよみはらりょう〕によって)「(本来は“皇帝”の正妻に使われるはずの)皇后」が採用されている。この事実も天武朝説では整合的な説明ができない(シナでは天皇―天后/皇帝―皇后という対応関係なのに日本では天皇-皇后という独自な対応関係)。


駆け足で舌足らずな整理になったが、一先ず以上によって「天皇」号の成立は推古天皇16年(608年)、より絞れば、「日出づる処の天子」という書き出しの国書を持参した第2次遣隋使が帰国した同年4月以降、第3次遣隋使が「東の天皇」という書き出しの国書を携えて出発した

9月までの半年ほどの間だった可能性が、最も高い。

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