10月20日、上皇后陛下の米寿のお祝い。上皇・上皇后両陛下の末永いご平安とご健勝を祈り上げる。
10月21日、秋篠宮家のご長女の眞子さまのご結婚相手の小室圭氏が難関の米国ニューヨーク州弁護士試験に合格された。理不尽な逆風を克服されて見事な結果を出されたことは本当に喜ばしい。眞子さまのお誕生日を前に最高のプレゼントになった(眞子さまのお誕生日は10月23日)。
そのご努力に敬意を捧げる。
10月22日、天皇・皇后両陛下はご即位後、初めて沖縄にお入りになった。
まず糸満市の平和祈念公園を訪れられ、戦没者を慰霊され、ご遺族をお優しく慰められた。
昭和天皇、上皇陛下のお気持ちをも背負われての沖縄ご訪問は、感慨深い。
昭和天皇は敗戦後、様々なご不便を押して全国の都道府県を巡られ、国民は励まし、奮い立たされた。その総行程は3万3千キロにも及ぶ。しかし、沖縄だけが残されていた。本土復帰後も沖縄ご訪問は実現せず、ご晩年の昭和62年にやっとお出ましが決まった時は、既にご高齢のお身体は癌に冒されていた。
この時の昭和天皇の御製(ぎょせい)。
思はざる 病となりぬ 沖縄を
たづねて果さむ つとめありしを
昭和天皇のご無念が伝わる。
上皇陛下はご即位後、昭和天皇のお気持ちを受け継いでまず沖縄に訪れることを望んでおられたと伝わる。しかし、ご一存ではそれも叶わないお立場ゆえに、天皇として初めて沖縄を訪れられたのは、平成5年の全国植樹祭の折になった。
それ以前に皇太子として5回のご訪問。その最初が、昭和50年の沖縄海洋博覧会の開会式へのお出まし。ご慰霊の為にわざわざ南部戦跡に赴かれた際に、「ひめゆりの塔」で過激派に火炎瓶を投げつけられる事件があったのは、よく知られているはずだ。上皇陛下はご予定になかった談話を発表された。
「(沖縄で)払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、1人ひとり深い内省の中にあって、この地に心を
寄せ続けていくことをおいて考えられません」と。
火炎瓶を投げつけた者達の思いも包み込まれるようなおことばだ。そして、ご自身でその通り実践を重ねられた。
沖縄へのご訪問を重ねられ、毎年、終戦記念日、広島・長崎への原爆投下の日と共に、沖縄での組織的な戦闘が終結した6月23日には黙祷を欠かされなかった。そのご誠実な積み重ねの上で、天皇として初めて訪れられた全国植樹祭の会場では、地元の皆さんが自発的にそれぞれ日の丸の小旗を振って、上皇陛下をお迎えした(普通、植樹祭で日の丸の小旗を振るようなことは行わない)。
上皇陛下が天皇として最後に迎えられた平成30年のお誕生日に際しての記者会見でも、次のように述べておられる。
「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后とと共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するように努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」
この度の沖縄へのお出ましに当たって天皇陛下が背負われた、昭和天皇と上皇陛下のお気持ちを見落としてはならないだろう。
そもそも、今回のお出ましは沖縄で開催される「国民文化祭」及び「全国障害者芸術・文化祭」の開会式へのご臨席の為だが、天皇陛下はその第1回(前者は昭和61年、後者は平成29年から
前者と一体的に開催)からお出ましの行事で、昭和時代は皇太子(上皇陛下)のご長男の浩宮として、平成時代では皇太子のご公務に格上げの上で参加され、令和になってご即位後は、天皇のご公務に更に格上げされて、今回のお出ましに繋がったという経緯がある。