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  • 執筆者の写真高森明勅

令和の大嘗祭で「主基(すき)」地方が京都だったことの意味

更新日:2022年8月31日


令和の大嘗祭で「主基(すき)」地方が京都だったことの意味

ほとんど見逃されているが興味深い事実を取り上げてみる。


皇位のご継承に伴う伝統的な重大行事の1つに、「大嘗祭(だいじょうさい)」という大がかりな

国家的・国民的祭儀がある。この祭儀で最も大切なのは、そのつど選ばれる悠紀(ゆき)・主基(すき)両地方の地元の国民(歴史的には公民〔おおみたから〕)が、丹精を込めて育てた“稲”だ(詳しくは拙著『天皇と国民をつなぐ大嘗祭』参照)。


令和の大嘗祭では、悠紀地方に栃木県、主基地方に京都府が選ばれた。

天皇陛下にとって最も尊厳な祭儀へのご奉仕だから、選ばれた府県としてはすこぶる名誉なことだった。


ここで注意すべきなのは、両地方はこれまで例外なく首都圏の“外側”の地方(歴史的には畿外〔きがい〕)から選ばれて来たという事実だ(明治大嘗祭の主基地方は安房国〔あわのくに、千葉県〕だが、当時はまだ首都圏とは見なされず、むしろ戊辰戦争の激戦地だった)。それに京都が“初めて”選ばれた事実は、軽々しく見逃せない。


以前のブログでも触れたように、旧登極令には即位の礼・大嘗祭を「京都」で行うことが規定されていた(この規定に基づき、大正・昭和の時には京都で行われた)。それを根拠に、平成の御代替(みよが)わりに当たって、東京での挙行に反対し、京都で行うべきであるとする保守系の意見も、一部にあった。


しかし令和の大嘗祭では、首都圏の外側から選ばれるはずの主基地方に京都府が決まっても、

それに異論を唱える声は少なくとも私が承知している限り、どこからも聞こえて来なかった。


“千年の都”だった京都から東京への遷都も、明治・大正・昭和・平成の歳月を経て、遂に

定着したということだろう。

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