• 高森明勅

歴史上の「皇統の危機」、目の前に迫っている「皇統の危機」

更新日:2021年12月17日



歴史上の「皇統の危機」、目の前に迫っている「皇統の危機」

過日、勉強熱心で私が信頼し、尊敬する教育関係者の方から、歴史上の「皇統の危機」について質問を受けた。これまで、以下のような事例が指摘されている。それをどう見るべきか、というお尋ねだった。


《皇統の危機とされる事例》


①第25代・武烈天皇→第26代・継体天皇

②第48代・称徳天皇→第49代・光仁天皇

③第101代・称光天皇→第102代・後花園天皇

④第118代・後桃園天皇→第119代・光格天皇


確かに、これらにおいて血縁の極めて遠い皇位継承が行われている。

しかし、皇統の危機をどう定義するかによって、評価が違って来る。


《称徳天皇→光仁天皇は除外》


まさに文字通り、「皇位を継承すべき皇族自体が途絶えそうになること」という(政治的事情などを度外視した)厳密な定義を採用をした場合は、どうか。


まず、②は除外されることになろう。


天武天皇・持統天皇の系統とは別に、天智天皇の系統の皇族などが複数存在していたことは明らかだ。

天智天皇の皇子、施基皇子のお子様で、光仁天皇のご兄弟に当たり、史料にも名前が残っている人物だけで春日王、湯原王、壹志王、榎井王などがおられた。春日王、湯原王、榎井王のお子様方も知られている。よって、上記の意味での皇統の危機とは言えない。


《称光天皇→後花園天皇も同様》


③についても同様だ。

北朝第4代・後光厳天皇の系統の継承者は不在だったかも知れないが、同じ北朝第3代・崇光天皇の系統の後花園天皇がおられた他、当時、小倉宮聖承王(第99代・後亀山天皇の孫)が皇位の回復を求めて挙兵を企てるなど、旧南朝系(大覚寺統)の皇族もおられた(第98代・長慶天皇の皇子、玉川宮ほか)。

よって、厳密な意味では皇統の危機とは言えないだろう。


《後桃園天皇→光格天皇も又》


これは④にも当てはまる。

当時、既に第113代・東山天皇の皇子の直仁親王を初代とする閑院宮家が創設されていた。

光格天皇は同家の出だが、ご兄弟も多く、現に長兄の美仁親王が同家第3代の当主になられた。

つまり、皇位を継承すべき皇族が不在になっていたのではない。


《武烈天皇→継体天皇》


このように検討して来ると、①以外は厳密な意味での皇統の危機とは言えないことになる。

但し、①についても、他に「倭彦王」という継承候補者がいたことが『日本書紀』に明記され、更に「橘王」、「丘稚子王」などの、第16代・仁徳天皇の系統を引く同時代の男性皇族の存在が、指摘されている(水谷千秋氏)。


ちなみに、この時に王朝交替があったとする旧説があった。

しかし、継体天皇が即位する少し前に造られた隅田八幡神社人物画像鏡(503年説が有力)の銘文に、同天皇を「男弟王」と記しており、“王”の称号を帯びていたので、当時、皇統に属する皇族と認められていたことが分かる。従って、そうした説は成り立たない。


《清寧天皇→顕宗・仁賢天皇という事例》


又、①より前にも皇統の危機はあった。それは次の事例だ。

◎第22代・清寧天皇→第23代・顕宗天皇、第24代・仁賢天皇この事例については、廣瀬明正氏「顕宗・仁賢天皇と播磨国」(『播磨古代史論考』所収)、熊谷保孝氏「顕宗天皇の即位の背景」(「摂播歴史研究」第81号)など参照。


又、5世紀後半以降、◎清寧天皇→顕宗・仁賢天皇、①武烈天皇→継体天皇と、皇統の危機が立て続けに起きた歴史的背景については、拙著『日本の10大天皇』(幻冬舎新書)第1章を参照。


《史上空前の危機》


以上によって、今、私らの目の前に迫っている皇統の危機が、①以来、(継体天皇のご即位が507年なので)実におよそ1500年(!)ぶりの深刻な事態であることが分かるだろう。


しかも、次世代の皇位継承者が悠仁親王殿下お1方“だけ”という事実は、①よりも一層、困難な局面と言えるだろう。

その意味では、皇統の存続についてほとんど“史上空前の危機”と言っても、敢えて言い過ぎではないはずだ。

にも拘らず、政府・国会及び国民に危機感が薄いのはどうしたことか。


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