かつて、上皇陛下がご譲位を希望されるお気持ちが明らかになった時、保守系の知識人の中に、
あろうことかそれに公然と反対する者らがいた。
もし、ご本人のお気持ちで天皇の地位を退くことが可能になったら、天皇・皇室を巡る制度が根幹から揺らいでしまう、というのがその理由だった。
これは、皇室の方々への根本的な不信感を前提とした考え方と言う他ない。非礼・不敬この上ない。しかも、当事者のお気持ちを無視して、強制的にその地位に縛り付けておくことができる、という非人道的な発想に基づく。呆れ返った話だ。
《エスプリ・ドゥ・コール》
こうした考え方に対して、憲法学者の長谷部恭男氏が以下のような言及をされている(「奥平康弘『「万世一系」の研究』〔上〕解説」)。
「天皇制および皇室制度を持続的に支えようとする皇族に共有される精神、つまりエスプリ・ドゥ・コールが失われれば、退位の自由を含めた『(皇室からの)脱出の自由』を否定したとしても、現在の姿の天皇制および皇室制度を維持することはおぼつかない。
天皇が自発的に公務を放棄したら、摂政とされた皇族も次々に公務を放棄したら、また皇族が世間から当然に期待される行動や態度を示すことをやめたら、どうなるであろうか。…逆に言えば、エスプリ・ドゥ・コールが維持されている限り、『脱出の自由』をたとえ認めたとしても、皇族が次々と脱出することはあり得ない。…
天皇に退位の自由を認めると、天皇制が立ち行かなくなるリスクがあるという議論は、天皇制を支えるこうしたエスプリ・ドゥ・コールの意義を見失った議論のように思われる。
こうしたコミットメントが皇族に共有されている限りでは、退位の自由を認めたからと言って、天皇制が揺らぐことはないであろうし、逆に言えば、退位の自由を認めると天皇制が揺らぐと主張する人々は、皇室のメンバーが天皇制を真摯に支えようとしていないのではないかと疑っている人々だということになる」と。
指摘の通りだろう。
《国民にも求められている》
繰り返される皇室への心ないバッシングは、皇室の方々に共有されている、困難に耐えて天皇・皇室を巡る制度を支え続けようとする高貴な精神を、深く傷つける以外の何ものでもないだろう。
もし、天皇・皇室という存在がこれからも続いて行くことを本当に願うのであれば、国民一人一人が、皇室の方々には及ばぬまでも、真摯に天皇・皇室を巡る制度を(国民としての立場で)支えようとする精神を、しっかりと共有する必要がある。そのことを忘れてはならない。
追記
10月20日、ロイター通信のテレビ放送用のインタビューに応じた。
来週、眞子内親王殿下がご結婚された時に放送する番組用の収録。
zoomのミーティング機能を使って、別々の場所にいるインタビュアーと翻訳担当者の2人とやり取りし、私が喋る模様を録画した映像を編集して、世界各国のテレビ局に配信するようだ。
2人とも日本語が上手なので、気楽に応答できた。