
本郷和人氏『空白の日本史』(扶桑社新書)は、校閲の大切さを“裏側から”学べて、教訓が多い。こんな記述がある。
「今の伊勢神宮を頂点とする神社本庁という組織自体も、作られたのは明治以降です。
そして、この神社本庁と不即不離の関係にあるのが、国民会議です。
両者によって議論が磨かれ、天皇陛下が伊勢神宮を極めて重んじる姿勢がとられるようになりました。それにより、大々的な代替わりの儀式が生まれたわけです」
これは凄い。
この短い文章の中で、間違っていない部分がほぼ皆無。
間違いのオンパレード。
《神社本庁は被占領下に設立》
まず「伊勢神宮を頂点とする神社本庁という組織」。
しかし、神社本庁は伊勢神宮を“本宗(ほんそう)”と仰いでいるが、伊勢神宮は「神社本庁という組織」には加わっていない。だから、「伊勢神宮を頂点とする…組織」は実在しない。
次に「作られたのは明治以降」。
これは“完全な”間違いではない(スマートフォンが作られたのは「明治以降」と言っても完全には間違いでないのとほとんど同じような意味では…)。
しかし神社本庁は、敗戦後の被占領下において、GHQの「神道指令」(昭和20年12月15日)で明治以来の宗教制度が解体され、全国の神社が生き残りを模索する中で、主に葦津珍彦氏の提案をもとに昭和21年2月3日に創設されている(神社新報社編『神道指令と戦後の神道』ほか参照)。
これを「明治以降」と言ってしまっては、同組織の設立理由も、組織の性格も全く理解できなくなるだろう。
《謎の「国民会議」?》
「この神社本庁と不即不離の関係にあるのが、国民会議」
この「国民会議」って何だ?
神社本庁の職員も知らないだろう。
よく左翼などが、「神社本庁と不即不離の関係」とか言って批判しているのは、「“国民”会議」ではなく、“日本”会議だが。
この本は扶桑社新書の1冊なのに、同新書で最大のベストセラーは恐らく『日本会議の研究』だったはずで、そのドル箱ネタの「日本会議」を国民会議と間違っても平気らしい(もっとも、日本会議の前身組織は「日本を守る会」と「日本を守る“国民会議”」だった。どちらも今は存在しないが)。これは校閲抜きでも、担当の編集者が気付くべきごく初歩的なミスだろう。
「両者によって議論が磨かれ、天皇陛下が伊勢神宮を極めて重んじる姿勢がとられるようになりました」神社本庁と「国民会議」(日本会議?)が「議論」を「磨」いて、畏れ多くも天皇陛下を動かすとは、どれだけ恐るべき組織なのか。
って、他の誰よりも神社本庁と日本会議の関係者が一番驚くはずだ。しかし、改めて言うまでもなく、歴代の天皇は、神社本庁も日本会議(国民会議?)も、まだ影も形も無い頃から、「伊勢神宮を極めて重んじ」て来られている(八束清貫氏『皇室と神宮』ほか参照)。
歴史を語る最低限の前提は、出来事を時系列に沿って整理する作業だったはず。
それとも、神社本庁と「国民会議」は、自らの組織が設立される“千年以上”も前から歴代天皇に影響を与えるほど、桁外れな超能力(!?)を備えた組織なのか。
《即位儀式は基本的に「登極令」に依拠》
「それにより、大々的な代替わりの儀式が生まれたわけです」今回の「大々的な代替わりの儀式」の在り方を決めたのは、勿論、神社本庁でも「国民会議」でもなく、政府に設けられた「皇位継承式典委員会」だ(委員長は当時の安倍晋三首相。宮内庁にも別に「大礼委員会」が設けられた)。
そこで最も参考にされたのは、上皇陛下が即位された「平成」の時の一連の儀式に他ならない(平成の儀式の様子は鎌田純一氏『即位礼・大嘗祭/平成大礼要話』ほか参照)。
その平成の儀式が基本的に踏襲しようとしたのは、既に法的効力を失った「登極令」(明治42年2月11日制定)に規定された在り方だ(そこでは勿論、「伊勢神宮を極めて重んじる姿勢」が貫かれている)。
神社本庁などが主張したのも、「神社本庁という組織」が設立されるより遥か前に作られた、同令での在り方を最大限に尊重すべし、ということに過ぎない。
ここでも、出来事を時系列に沿って整理する作業がおろそかにされている(プラス誇大妄想の気配が濃厚)。もし普通の校閲が行われていれば、先の文章の全体に鉛筆で傍線が引かれ、しっかり“疑問出し”がされたに違いない。校閲の「空白」が悔やまれる。