5月3日の「憲法記念日」に立憲民主党が公表した談話は以下の通り。
「新型コロナの感染拡大防止のために真に必要な権限は、『公共の福祉』にかなうものとして現行憲法下でも認められている。政府がここまで無策、不十分、的外れな対策しかできなかったのは、政府の権限が限定されているからでも、緊急事態条項が憲法に明記されていないからでもない。政府が、国民の命と生活を真正面から背負うことに怯み、小手先の施策に終始してきたからだ」。
私は、菅政権の新型コロナ禍へのこれまでの対応を、ことさら擁護するつもりはない。
科学的知見に立脚するよりも、ポピュリズムに押し切られる傾きが強かったのは、とても残念だと思っている。
しかし、同党の談話は、まさに憲法学者の横大道聡氏がゴー宣道場拡大版で批判された「エリート・プラグマティズム」そのものであり、むしろ危険なものを感じる。
この談話から透けて見えるのは、2つ。
1つは、とにかく政府を批判するという動機。今年は衆院選挙を控えているので、この動機がより前面に出てしまうのだろう。もう1つは、憲法改正をひたすら回避すること。この2点を見ても、同党はいつの間にか、すっかり“第2社会党”のようになってしまった(正確には“より弱体化した社会党”か?)。
しかし、上記談話は、裏返せば次のように主張しているに等しい。
「政府は、今の憲法のままでも、茫漠とした『公共の福祉』という概念をどこまでも拡大させれば、統制なき権力を振るうことが出来て、国民の自由や権利を好き勝手に制約できる」と。
つまり、憲法に「緊急事態条項」を追加して、憲法に基づく政府の(緊急事態に限定した)国民への「規制」を強める一方、それを発動する為の要件や手続き、事後の救済、検証義務など、政府への「統制」もより厳格化するのではなく、「(政府への)統制」なき「(国民への)規制」の強化が、「“公共の福祉”にかなう“真に必要な権限”」として、憲法の拡大解釈だけで十分に可能(!)という発想だ。
これは憲法“改正”が無用なだけでなく、自由・権利の擁護と政治権力の統制という、憲法の「存在理由」自体を軽視しているので、ほとんど憲法“そのもの”を無用視しているに近い。
絵に描いたような“反”立憲主義的な考え方ではあるまいか。
「立憲」民主党という党名が、今や同党への最も辛辣な皮肉に転化しているのは、喜劇か、それとも悲劇か。