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  • 執筆者の写真高森明勅

「建国記念の日」3つの視点(2)


「建国記念の日」3つの視点(2)

②2月11日「紀元節」制定の直接のきっかけは、明治初め頃の旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)への改暦だった。この改暦に伴い、紀元を立てることが決まり、古代から用いられて来た神武天皇のご即位を紀元とすること(皇紀)が、改めて制度化された(明治5年11月)。


その時に、併せて神武天皇の即位日に当たる日を「祝日」とすることが決まった。但し、当初は旧暦の日付を新暦に当て嵌(は)めただけだった(同6年1月19日。「紀元節」という名称が決まるのは、これより後の同年3月7日)。それだと、毎年、日付が変わってしまう。

なので、改めて『日本書紀』の記述に従って2500年余り前に遡り、同書に神武天皇のご即位の日付を「辛酉年(かのととりのとし)春正月(はるむつき)庚辰(かのえたつの)朔(ついたちのひ)」としているのを、「2月11日」と決定した(同10月14日)。


太陽暦の採用は、明らかに当時の文明開化=近代化・西洋化の方向に沿うものだったはずで、紀元を制度化するという着想自体も、欧米各国が紀元を用いている実情に触発された可能性が指摘されている。にも拘(かかわ)らず、実際に採用されたのは西暦(キリスト教暦)ではなく、日本独自の「皇紀」だった。


更に、神武天皇の建国を顧みる意識も一層、高まっている。これらは、その頃の日本人が、決して没主体的な欧化一辺倒ではなかっ事実を示していて、興味深い。


そもそも、明治維新の“原点”と言うべき「王政復古の大号令」(慶応3年12月9日)には「諸事、神武創業の始(はじめ)に原(もと)づき(全て神武天皇が日本の国を建てられた当初に立脚して…)」とあった。


これから未曾有の大変革を断行するに当たり、悪(あ)しき前例主義を断ち切って、旧弊をことごとく排除する姿勢を明確にされたのだ。徹底した変革を構想する場合、依拠すべき基準は、「神武創業」以外に無かった。


古代を顧みると、古代統一国家形成への本格的なスタートと言うべき大化の改新の際や、同統一国家の確立を導いた壬申の乱の最中に、神武天皇への回想が表面化していた(『日本書紀』大化3年〔647年〕4月26日条、天武天皇元年〔672年〕7月条)。それらの事実と照らし合わせ、大胆に近代統一国家の建設を進めた明治維新において、神武天皇の建国が身近に感じられたのも、不思議ではない。


明治の先人は、自分たちの“功業”を後世に遺(のこ)す維新記念日は作らないで、自分たちの“理想”を託して紀元節を制定した、と見ることが出来る。維新の諸変革を総括する意味を持った明治の皇室典範と帝国憲法が共に、明治22年の紀元節当日に制定された事実を、重く受け止める必要がある(翌年4月には神武天皇を祀〔まつ〕る橿原〔かしはら〕神宮も創建された)。紀元節は明治維新の理想が託された祝日だった。(続く)

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