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  • 執筆者の写真高森明勅

双系という「やまとごころ」

更新日:2021年5月11日


双系という「やまとごころ」

古代日本は、これまでの研究によって、「男系(父系)」だけでなく「女系(母系)」も機能し得る、「双系(方)」社会だったと見られている。


例えば、以下の通り。


「日本の古代社会には、父系、母系いずれの単系集団も存在していなかったが…親族名称、婚姻(こんいん)制度などから想定される基層社会は双系的な性格が強い」


「双系的な基層社会は…小規模な自然水系に依存する水稲耕作社会には適合的であった」


「日本の律令制定者が、中国律令を手本として日本律令を編纂(へんさん)した際、父系出自集団を基礎とした中国律令の枠組みを根本的に組み変えることはできなかったが…日本律令は中国律令の父系制的な規定を双系的に修正した」(吉田孝氏『律令国家と古代の社会』昭和58年)


「王位をはじめとする古代の族長権の継承は、単純に父系あるいは男系によっては説明がつかない。それに母系あるいは女系を加えた“双系的”なものを予測しないでは正しい理解はできない」(平野邦雄氏『大化前代政治過程の研究』昭和60年)


「戦後の社会人類学の成果を古代史に導入した双方(=「双系」)社会論(では)…日本は東南アジアと類似した双方=非単系的な社会基盤の上に父系を発達させようとした社会であって、時代を遡る程(ほど)、民衆に近づく程、双方(非単系)原理が一層強く機能している、とみる」


「この双方社会論によって、父系・母系では説明のつかぬ古代~中世の不可解な親族構造の問題は、解決の糸口が与えられた」


「理念的な文化体系・規範としては…古くから支配者層に強い父系出自観念・イデオロギーが存在し、素朴な父系出自の同族観念を持っている。ところが…現実的な社会体系・構造としては…実態的に氏姓の混乱が起こったり、母方帰属などを取り込んだ血縁集団しか形成されず、排他的な父系出自集団が実現し難かったわけである。


基層に根強い双方的な親族原理が機能していたことと裏表をなしている。要するに、父系制社会と異なり(日本では)文化理念と社会構造との間に大きな落差・ギャップがある」(明石一紀氏『日本古代の親族構造』平成2年)


「日本古代の血縁原理として、父方・母方のいずれにも偏ることのない、柔軟性に富んだ双方(系)制というものが存在し、それが王位の継承や支配層の親族形態などを大きく規定していたのではないか」


「(大宝令・養老令の「継嗣令〔けいしりょう〕」皇兄弟子条にある)『女帝子亦同(女帝の子も亦〔また〕同じ)』とする記述は…女帝の所生子(女性天皇がお生みになったお子様)の身位(しんい=身分・地位)についての注記であり、律令本来の父系帰属主義(男系主義)からすると、子は父の身位を継ぐものであった。


ところが、母が帝位(皇位)にあることで、その父系統帰属主義に則(のっと)った身位の継承に変更を加えたのである。…さらに、その所生子の身位は(女系によって)親王とされ、有力な皇位継承者の一員となるのである」


「つまり、女帝も男帝と別なく、皇位継承者の再生産を担当するという面を有していたのであった」(成清弘和氏『日本古代の王位継承と親族』平成11年)


「古代日本は父系的親族組織に基づく社会ではなく双方的親族組織に基づく社会であり、父系制が日本社会に定着するのは古代末期から中世初め」


「古代日本の親族組織である双方制により、女性は未婚、既婚を問わず、男性と全く対等と言わないまでも一定の地位をその家族内で認められており…血統面からの王位継承者としての資格は潜在的に留保されていた」(同『日本古代の家族・親族』平成13年)


「日本古代の一般的な親族組織は、父方・母方に大きな差がない双方(bi‐lateral)な家族が社会の基礎的な単位となっていた(例、父の兄弟・姉妹と、母の兄弟・姉妹を、ともに

『ヲヂ』・『ヲバ』という…)。


このような双方的な家族を基礎として、支配層では父系の親族組織『ウヂ』を形成する。…しかし、中国(漢族)の『宗族(そうぞく)』のような父系の子孫を自動的に構成員とする父系出自集団(patri‐lineal decent group)ではなかった」(吉田『歴史のなかの天皇』平成18年)


「(5世紀の『倭の五王』の時代の)朝貢(ちようこう)は、中国王朝の冊封(さくほう)体制に組み込まれ…中国の支配体制・支配イデオロギーにふれることによって…支配秩序の整備が促進されたと考えられている。…そのような支配イデオロギーの中に、すでに中国では定着して久しい父系直系の継承…あるいは家族形態までもが含まれていた」


「わが国は当初から父系社会ではなく、東アジアの中で国家を形成していく過程で双系から父系に転換したものである。そして、その転換も徹底したものではなく、本来の双系社会の

特質を残した社会であった」(田中良之氏『骨が語る古代の家族』平成20年)


「7世紀末以前における『娶生(しゅせい)』系譜(父Aが母Bと娶〔みあ〕いて子Cを生む、という形式の系譜)の広範な存在は自己の社会的位置を明らかにするためには父母両系をたどる双系(双方)的なあり方が、父系導入以前の我が国の基層の親族構造だったことを、力強く示唆する」


「大宝令には『女帝の子も親王とする』との規定があり、養老令に引き継がれた…。日本古代の双方的な親族原理にもとづいて、中国の父系継承原理に反するこの規定がつけ加えられた」(義江明子氏『古代王権論』平成23年)等々。


“双系(方)”こそ「やまとごころ(日本本来の伝統)」、女系を頑(かたく)なに排除した“男系絶対”は「からごころ(シナ文明への心酔)」―という学問研究の成果を踏まえた整理の仕方が、一般的な常識として、もう少し広まると良いのだが。

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