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  • 執筆者の写真高森明勅

富岡幸一郎氏が拙著を紹介


『天皇と国民をつなぐ大嘗祭』

富岡幸一郎氏が拙著を紹介

文芸評論家で関東学院大学教授、鎌倉文学館の館長も務めておられる富岡幸一郎氏。この度、拙著『天皇と国民をつなぐ大嘗祭』(展転社)を産経新聞(10月5日付)でご紹介下さった。


紹介文のタイトルは「日本人として知りたい儀礼」。恐縮かつ光栄だ。その一部を引用させて戴く。


「戦後は新嘗祭すらも『勤労感謝の日』などという祝日となり、何がなんだかわからなくなったが、日本人たるもの、一生に一回体験できるかどうかの大嘗祭について知っておきたい。『知ってるつもり』どころか何も『知らない』、この古代からの皇位継承の大切な儀礼について『知りたい』。本書は、そんな思いに応えてくれる。まず目からウロコなのは、大嘗祭と新嘗祭は“区別”されなければならないということだ。


…大嘗祭ではすでに報道されているように、占いで選ばれた地方の田んぼを用いる。つまり新嘗祭は宮中の祭りであるのに対して、大嘗祭は民の奉仕を主体とする全国的な意味合いの祭儀であるという。天皇と国民をつなぐ点にまさに祭りの主軸があり、それゆえに皇位継承にかかわる大切な行事なのだ」


私が伝えたい要点をコンパクトに整理して下さった。なお、拙著には次のような一文がある。


「新嘗祭も明治25年(1892)以降、国民の願いにより、全国各地より米と粟(あわ)が献上され、それが供えられることになった。これは国民国家の時代にうつって、新嘗祭がすこし『大嘗祭』化したともいえよう」と。では、これによって大嘗祭と新嘗祭の「区別」は根本的に解消されたのか。勿論、そうではない。新嘗祭への各地の国民の新穀の献上は、言わば“有志”国民を代表する性格を持つ。


これに対して、大嘗祭での悠紀・主基両地方の場合は、亀卜(きぼく)による点定を介する事で、“全”国民の奉仕を祭式的に「象徴」する。両者の違いは歴然としている。それ故にこそ、大嘗祭は新嘗祭が持ち得ない、「国民統合の象徴」に相応しい皇位継承儀礼としての意義を、確かに担う事が出来るのだ。念の為に。

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