旧「登極令(とうきょくれい)」(明治42年公布)には次のような規定があった。即位礼が終わった後に「続(つづき)て」大嘗祭を行うべし、と(第4条)。その為、同令に基づいた大正・昭和の即位礼と大嘗祭の間は僅か3日間しかなかった。まさに前代未聞。このような規定が加えられた理由は何か。
明治の皇室典範に、事実上の首都たる東京から遠く離れた「京都」で、それらを行うべき事が定めていた(第11条)からに他ならない。
登極令を審議・可決した明治42年1月27日の枢密院本会議で、審査委員だった奥野義人が、その主旨を以下のように説明していた。「其(そ)の所以(ゆえん)は、即位の礼を大嘗祭と別別に行ふこととすれば、期年ならずして一再(いっさい)車駕(しゃが、行幸で天皇がお乗りになる車、転じて天皇陛下)を京都に労させ玉はざるべからず。又(また)用度(ようど、必要な経費)のことも考慮せざるべからず。故に之(これ)を同時に行ふこととせり」と(所功氏『近代大礼関係の基本史料集成』)。
要するに、即位礼と大嘗祭を京都で行うのを前提とすれば、2つの行事を期間を空けて別々に行うと、天皇に繰り返しお出まし戴くご負担をお掛けする結果になる。更に、政府関係者その他多数が2度も往復するので費用も嵩(かさ)む。だから、京都への往復が1度で済むように、2つの行事を引き続いて行う事にした、というのだ。極めて便宜的、世俗的な理由と言うべきだろう。
こんな理由なら、即位礼・大嘗祭を「東京」で行う場合には、何ら顧慮する必要が無いのは明らかだ。
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