政府が、皇位の安定継承の在り方を検討する有識者会議の設置を、検討しているという(産経新聞12月12日付)。これが事実なら、2つのことを意味しているだろう。
その1つは、先に報じられた「皇女」制度案が、一先ず取り下げられたこと。もう1つは、皇位の安定継承への検討をこれ以上、“先延ばし“するのを断念したらしいこと(こちらは、まだまだ予断を許さないが)。どうして、このような帰結になったか。これまでの経過を簡単に振り返っておこう。
11月24日、共同通信と読売新聞が「皇女」制度案をスクープ。政府は当面、このプランで、皇室典範特例法の附帯決議への対応に“すり替え”ようと考えていたはずだ。しかし翌日、参院議員会館で私らの緊急シンポジウム。そこで「皇女」案を徹底的に批判した(会場での配布資料にも私の「皇女」案批判ブログを急いで追加)。間髪を入れず、政界とメディアに“一石”を投じた格好だ。偶然ながら、まさにグッドタイミング。
25日、早速、波紋が政界に広がり始める。シンポジウムに参加された玉木雄一郎・国民民主党代表が、記者会見で「皇女」案を敢然と批判。これは、その後の展開に繋(つな)がる貴重なアピールだった。
28日、メディアにも動き。毎日新聞のホームページにシンポジウムの詳報がアップされる。
30日、政界で更に注目すべき動きが。野党第1党・立憲民主党の枝野幸男代表も、「皇女」案を明確に批判したのだ。波紋はより大きくなった。
ここまで来れば、同案を“そのままの形”で国会に回しても、強い抵抗や紛糾を招きかねない。そのことがいよいよ明らかな局面に入った。他のテーマならともかく、皇室に関わる問題では、そのような事態は何としても避けねばならない。この時点で、私は「皇女」案が取り下げられる感触を得た。
恐らく大島理森衆院議長も、上皇陛下のご譲位を可能にする法整備の際の経過を、改めて思い浮かべられたに違いない。あの時は、民進党(当時)が早々と本格的な「論点整理」を公表。これによって、大島氏は政府の思惑(おもわく)だけで突き進むことに危機感を覚えられた。
政府サイドの有識者会議にストップを掛け、国民の代表機関である国会での合意形成に向けて、自らリーダシップを発揮された。それが、特例法の円満な成立への、最大の貢献となった。大島氏は、その“勝利”体験を持っておられる。
12月1日、私の「皇女」案を批判した文章が共同通信から各地のブロック紙・地方紙に配信された。11日、大島議長が記者会見で、(これ以上、先延ばししないで)菅義偉内閣が責任を持って、皇位の安定継承について解決すべきことを表明。政府に対し、附帯決議で言及された女性宮家などの検討を、求められた。
波紋の広がりはほぼピークに達した。このタイミングで、政府はメディアに対して、「皇女」案は検討して“いない”、と回答。同日、私は「テレ東ニュース」で「皇女」案を解説し、皇位の安定継承には繋(つな)がらず、附帯決議へのアンサーになっていないことを指摘した(同日、YouTubeにアップ)。
12日、政府が新たに有識者会議の設置を検討しているとの報道。政府が当初、狙っていたシナリオは、ハッキリ躓(つまず)いたと見てよいだろう。勿論(もちろん)、民間の非力な私らが、政府の動きを直接、止められるはずがない。
しかし、“小さな石ころ”を投げる位のことは出来る。客観的に言って、それが、玉木代表の勇気ある反対表明を引き出すキッカケになったことは、確かだろう。シンポジウムの翌日というタイミングだけでなく、反対論のロジックの構成からも、そう受け止めてよいはずだ。
その玉木氏の表明がなければ、枝野氏が明確な反対に踏み切れたか、どうか。枝野・玉木両党首の反対論が表面化していなければ、大島議長の態度も、もう少し違っていたかも知れない。大島氏の、附帯決議の趣旨を貫こうとされる、毅然(きぜん)とした姿勢こそ、政府に「皇女」案の取り下げを迫る決定打になったことは、ほぼ間違いないだろう。
今回の経緯を振り返ると、予想していたより速やかに、困難と思われた成果を生み出すことが出来たかも知れない。少なくとも、私らが全く無力な訳ではない、と考えることは許されるだろう。特に、普遍性と説得力のあるロジックを提出することの大切さを、感じる(特例法の時にも痛感したが)。
だが、まだ楽観は出来ない。後ろに駆け出そうとしていた政府を、やっと本来のスタートラインに引き戻したに過ぎないからだ。これからが、まさに正念場だ。今こそ、サイレント・マジョリテイーからボーカル・マジョリテイーへ。