• 高森明勅

「楯の会」憲法改正草案の“謎”



三島由紀夫が結成した「楯(たて)の会」(隊長は三島自身。

かの「三島事件」は、別名「楯の会事件」とも呼ばれる)。


同会では、独自の憲法改正草案を作成すべく、憲法研究会(阿部勉代表)を組織していた。

同研究会がまとめた改憲草案の「おおむねの内容(の一部?)」は、後に公表された(平成15年、松藤竹二郎氏によるのが最初か)ものの、さほど注目されていないようだ。


取り立てて言及されたのは鈴木邦男氏くらいだろうか(鈴木氏は、阿部氏から草案を託された同じく元・楯の会メンバーの本多清氏らへの取材もされた)。


「三島メモ」を元に、研究会のメンバーが討議を重ねてまとめたという同草案(の「おおむねの内容」)は、失礼ながら、私が読んでも完成度は必ずしも高くないように思える。


しかし一点、「天皇」の章に見える次の条文案は、見逃せない。


「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」現行皇室典範にある“男系男子”の縛りを、明確に(!)撤廃している。

今から半世紀も前の草案であることを考えると、驚くべき慧眼(けいがん)ではあるまいか(私が「男系男子」限定の無理さを指摘し始めたのはおよそ四半世紀前)。


公表された内容の全体に亘(わた)る文体の稚拙さ(をはじめ様々な未熟ぶり)は、とても三島自身の手になるとは思えない。

明らかに、メンバーが手探りで書いたものだろう(主な執筆者は若き日の阿部氏?)。


しかし一方、少なくとも同条の内容は、そのユニークさから、三島以外の研究会メンバーが独自に思い付いたとは、にわかに考え難い。

又、同条文を巡る研究会内部の討議でも、メンバーは戸惑いを隠せなかったようだ。

従って、これは(文章化が誰であれ)三島自身のアイデアだったと考えるのが、自然ではあるまいか。


実はこの点について、自分でもなかなか確信が持てなかった。

なので以前、「憂国忌(ゆうこくき)」の事務局を預かる三島由紀夫研究会の依頼で講演をした時(平成21年10月)に、会場に当時の三島由紀夫記念館の館長をはじめ、三島研究の専門家の方々が多数、来ておられたこともあり、講演の途中で少し異例ながら、私の方から“どう判断すべきか”、会場の皆さんにお尋ねしたことがあった。

だが、残念ながら、その場ではハッキリとした答えは得られなかった。


よって、今は取り敢えず、三島自身の着想だったと見ておこう(同研究会の代表だった故・阿部氏とは生前、いささかご縁があり、同草案が公表される前に、酒席などで何度かご一緒させて戴いた。だが残念ながら、同草案について話題になった記憶は、無い)。


同草案がまとめられた頃、皇室には昭和天皇以外に、上皇陛下(当時は皇太子)をはじめ、多くの男性皇族がおられた。

だから、「男系男子」限定というこれまでのルールを変更する必要があるとは、ほとんど気付かれていなかったはずだ。

そうした中で、「男系子孫に限ることはない」という改正草案を思い付くとは。

やはり一種の天才的な閃(ひらめ)きだろうか。


もっとも、これより更に以前、現在の皇室典範で「非嫡出」による皇位継承の可能性が排除されたことを受けて、葦津珍彦氏が次のような指摘をされていた。


「女系を認めず、しかも庶子(非嫡出子―引用者)継承を認めないと云ふ継承法は無理を免れぬ」(『天皇・神道・憲法』昭和29年刊)と。


葦津氏は、その「無理」を解消する為に、「庶出(非嫡出)」による継承の復活を唱えられていた。

あるいは、三島はこれを読んで、(葦津氏が唱えた)非嫡出による継承の復活は至難と自ら判断して、上記のごとき条文を思い付いたのだろうか。

葦津氏の著書は当初、「神社新報社・政教研究室」名義で出版された一方、三島は長編小説『鏡子の家』(昭和34年刊)執筆の為に、神社新報社の関係者に取材をしていた事実がある(たまたま、その取材を受けた関係者の子息が、私の学生時代からの友人)。


ならば、三島が上記の著書を読んでいた可能性は、想定しやすい。

しかし、たとえそうだったとしても、前出条文を着想した先見性、洞察力の卓抜さは、目を見張るものがある(これにもし、三島本人が関与していなければ、もっと驚くべき事実だが)。



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