『諸君!』平成11年12月号の三島事件を巡る「著名人100人アンケート」。何故か私にも依頼があって、回答を送った。「雷鳴(らいめい)の如(ごと)き啓示」と題した一文だ。
「(昭和45年11月の三島事件)当時、私は中学2年生。学校の給食時間にクラス担任が教室のテレビをつけ、皆で昼のニュースを見た。文学に全く無縁な田舎中学生だった私は最初、アナウンサーが『作家の三島由紀夫…』と云ふのを『サッカーの三島…』と聞き違へた。われながら随分お粗末な話だ。
しかし事件のニュースを聞き終へた時、全身をかつて経験したことのない強烈な戦慄が走り抜けてゐた。担任は元文学少女らしい女性教師で、口を極めて事件を罵倒した。これも衝撃だつた。生命尊重のお題目は小学校の頃から聞き飽きてゐる。だが今、目の前で、公(おおやけ)の為、日本の為に何ごとかを訴へようとして掛替えのない命を投げ出した人間がゐるのだ。
まづ虚心に一旦はその訴へに耳を傾け、しかる後に、当否善悪の判断をするのが、人の命を尊び重んずる者の態度ではないのか。そんな根深い違和感を覚えた。この違和感の奥には、特攻隊の生き残りだつた亡父の俤(おもかげ)がちらつく。
父は幼い私に、特攻隊員の遺書を吹き込んだレコードを繰り返し聴かせた。それは不思議と聴き飽きるといふことが無く、人の命の哀しさと崇高さを、肌身に沁みて最も激しく教へてくれた。そんな形で生命の尊厳を学んだ私にとつて、あの事件は時代の病弊と、それを超克しようとする志の一つの型を、雷鳴の如く啓示するものだった。あの日のことは決して忘れない」
ここで「雷鳴」という比喩を用いたのは、勿論(もちろん)、小高根二郎氏の著書『蓮田善明(はずだ・ぜんめい)とその死』(昭和45年3月、筑摩書房。後に同54年8月、島津書房から新版)に寄せた、三島の序文の表現を踏まえている。
「雷(かみなり)が遠いとき、窓を射る稲妻の光と、雷鳴との間には、思はぬ永い時間がある。私の場合には二十年があつた。そして在世の蓮田氏は、私には何やら目をつぶす紫の閃光(せんこう)として現はれて消え、二十数年後に、本書(『蓮田善明とその死』)のみちびきによつて、はじめて手ごたへのある、腹に響くなつかしい雷鳴が、野の豊饒(ほうじょう)を約束しつつ、轟(とどろい)いて来たのであった」
―しかし、蓮田善明の名前を知る人が、今の日本にどのくらいいるだろうか。
追記。
11月22日、午後2時から岡山護国神社の境内にある「いさお会館」にて「三島事件50年と憲法改正」と題して講演を行う。参加は無料。
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