昭和天皇の戦後の御製(ぎょせい)にも、「君主」としてのご自覚がよく表れている。
例えば、昭和35年の新年歌会始(うたかいはじめ)でご発表になった御製(お題は「光」)。
さしのぼる
朝日の光
へだてなく
世を照らさむぞ
わがねがひ(願い)なる
この御製は勿論(もちろん)、明治天皇の次の御製(明治42年の御作)を踏まえておられた。
さしのぼる
朝日のごとく
さはやか(爽やか)に
もたまほしき(持たま欲しき)は
こころ(心)なりけり
2首の御製を比べると、君主としてのご自覚がより前面に表れているのは、昭和天皇の御製の方だろう。この御製の眼目は「へだてなく」。国民の全てを「へだてなく」慈(いつく)しもう、とされる昭和天皇のお気持ちが、率直に表現されている。何より、この御製の“調べ”(言葉の調子)が、全く淀(よど)みも滞(とどこお)りも無く、清澄を極めている事実によって、それが昭和天皇の心底からのお気持ちであることが分かる。
“朝日の光”が地上の全ての物を「へだてなく」照らすように、自分自身も又、そのように国民に臨みたい、と。まさに「君主」としても一段、格調の高い公平無私、一視同仁(いっしどうじん)のお気持ちを拝することができる。
これは、改めて申す迄もなく、「天皇」として時代を超え、個性を超えた普遍的なご態度を示されている。と同時に、当時の社会情勢への、毅然(きぜん)たるご姿勢をお示しになったものでもあった。と言うのは、前年から日米安保条約の改定を巡り、国内を二分する政治的対立が尖鋭化していたからだ。
昭和34年11月27日には安保改定阻止を訴えるデモ隊2万人が国会構内に突入する事件も起きていた(この時、デモ隊に加わっていた東大生の樺〔かんば〕美智子さんが死去)。
国内は騒然たる有り様だった。そのような中でも、昭和天皇は超然と「国民“統合”の象徴」としてのお姿をお示しになったのであった。
ちなみに、その頃、昭和天皇はまだ、皇居内の防空施設である「御文庫(おぶんこ)」で暮らしておられた。戦時中、米軍による空襲を避ける為に、昭和18年4月1日から、居住性において劣悪であり、衛生上も問題のある同施設での生活を始められた。
戦争終結後は、(明治宮殿が戦災により類燃していたので)宮内庁の内外で御所(ごしょ=天皇のお住まい)の建設を求める声が高まっても、国民の生活改善を優先すべきであるとのお考えから、なかなかお許しにならなかった。
昭和天皇の新しいお住まいの「吹上(ふきあげ)御所」が完成したのは昭和36年で、同年12月初めにそこにお移りになっている。前後19年近くも、不便・不快な防空施設での生活を続けておられたことになる。
昭和天皇のご年齢にして、40歳代前半から60歳に掛けての長い歳月に当たる。世界の中で、国民の生活を思いやって、ここまでご自身の苦しみに耐え続けられた君主は、果たした他国に存在しただろうか。しかも、この事実は恐らく、今も多くの国民には知られないままではないか。
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