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  • 執筆者の写真高森明勅

「個人」という幻想

更新日:2021年1月21日

「個人」という幻想

保守とリベラルの思想的対立。私は両者に、それぞれ魅力と疑問を感じている。この両者の対立の根底にあるのは「人間観」そのものの対立だろう。


保守主義の前提には、感情に左右されやすく、間違いも多い、しがらみに囚われて、内面には悪の要素も抱えた、“弱い”人間像がある。その場合、人間の理性にも自ずと限界があると見る。だから、人間の理性だけで過去を裁断したり、未来を設計したりすることには、極めて慎重になる。


逆に、多くの人々の長い歳月を掛けた試行錯誤の積み重ねの結果、現在まで伝えられた伝統や慣習は、なるべく尊重する。時代の変化と共に何らかの「手直し」が必要な場合でも、控え目に、緩やかに行うことになる。人間は不完全で弱いことが前提だからだ。


これに対し、リベラル思想では全く異なる。人間は、卓越した理性と強固な意志を備えた存在だ。しがらみにも囚われないし、内面は善意で溢れている。そこがスタートラインになる。このような“強い”人間像を前提とすれば、理性の命じるところに従って、脇目も振らずに、大胆かつ性急に、“旧弊”を正す改革・改造を進めるのは、当然と判断される。


私のリベラル思想への最大の疑問は、個別の政治的主張の是非よりも、その前提になっている人間観が“余りに”も空想的な点にあった。そんな「人間」が現実世界の一体どこにいるのか(井上達夫氏を除いて!?)。


ところが、この度刊行された倉持麟太郎氏の『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)では、まさにこの点に鋭い批判の刃(やいば)を向けておられた。


この本は、単にリベラル勢力の「現状」への批判にとどまるものではない。リベラル「思想」それ自体の原理的な“鍛え直し”をも、図っているのだ。少しだけ引用しておこう。


「リベラル・デモクラシーにおける『個人(individual)』概念のプロジェクトとは、それぞれの生身の人間がもつアイデンティティは一旦脇に置いて、リベラルな個人たるもの理性的で公共心に富んだ強い『個人…』でいるべし、という各人の“アイデンティティ”封じ込め戦略だった。しかし、その封じ込め作戦は失敗した。『個人』としてあるべき姿の初期設定が非現実的過ぎたからである。近代以降、リベラルな社会が前提としてきた合理的な人間モデルはもはや限界である」


「個人が解放され身分や帰属関係から断ち切られたことによって、我々はいくつもの生の選択肢を前に、『自分らしい生』の選択を丸投げされた。しかし生身の人間はそんなに強くも合理的でもなく、不安感、孤独感、疎外感に苛(さいな)まれた。…不安感と孤独感は、その裏返しとして、強い公的承認をセラピー的に求めた。


『強い個人』から落ちこぼれた『生身の個人』が求めたセラピーは、民族や土地や言葉等という直截(ちょくせつ)的な統合(ナショナリズム)か、自分をふるい落とした人々が座るエリートの説教台を『既得権益』として徹底的に敵視しその打倒を目指す(ポピュリズム)か、あるいは社会の周縁における少数疎外者と感じる集団で結集する(アイデンティティ・リベラリズム)という形で表出した。


そして、セラピーにすら無力感を感じる大多数は政治的無関心=ニヒリズムへと染まっていったのである」


「『個人』という結び紐(ひも)がパチンと切れた社会は、各人の細分化されたアイデンティティ集団の集合体となり…民主的決定の主語となる『私たち』はできるだけ広く包摂的に

とらえるべきなのに、むしろアイデンティティの数だけ『私たち』が出現し、社会が取り組むべき共通の課題について立場を超えた合意形成はもはや困難になりつつある」


「階級や中間団体から我々を解放するための道具としてのリベラルな『個人…』概念は…国家(ナショナル・アイデンティティ)、地域共同体(ローカル・アイデンティティ)、そして個人一人一人のアイデンティティを溶解させてしまったのだ」


「自分の〔細分化された〕帰属とは独立した包摂的なナショナル・アイデンティティ、いわば包摂的ナショナリズムの構築を目指すべき…。リベラルな価値観とナショナリズムやナショナル・アイデンティティとの整合性に疑問を感じる方もいるかもしれない。私はこの逆説的なチャレンジが最良の選択だと考えている」


―思想・理論の面でも挑戦的(かつ挑発的)な著書だ。同書には共感できる箇所が多い。

なお私の保守主義への疑問については改めて。

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