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執筆者の写真高森明勅

日本書紀の中の「歴史回想」

更新日:2021年1月20日

日本書紀の中の「歴史回想」

私らが、歴史を回想しようとする場合、その“原点”となるのが日本書紀。その日本書紀自体の中に、歴史を回想する場面がいくつも出て来る。例えば、推古天皇15年(西暦607年)2月条に次のような記事がある。


「9日、推古天皇が詔(みことのり)を下して、『聞けば、昔、我が祖先の歴代天皇たちは、世の中を治めるに当たり、天地に身の置き所が無いほど謹(つつし)んで、厚く天(あま)つ神・国つ神を敬われ、山や川の神々もあまねく祭って、深く神々の力を天地にお通(かよ)わしめになった。


このため、陰陽はよく開き調和し、神々の仕業(しわざ)も順調に行われたと聴いている。

今、自分の世において、どうして神々の祭りを怠ってよかろうか、よいはずがない。それゆえ、群臣は、共に心を込めて神々を礼拝せよ』と仰せられた。15日、皇太子(聖徳太子)と大臣(蘇我馬子)は、朝廷の役人たちを従えて神々を祭り、礼拝した」


例によって、学者の間には、同記事の史実性を疑う見方もある。しかし、これは小野妹子(おののいもこ)に、「日出(い)づる処(ところ)の天子」というこれまでに前例の無い(相手国の皇帝に対して明確に“対等性”を主張する)国書(こくしょ)を託して、近隣の強大国・隋に派遣する(同年7月)のに先立って行われた、重要行事だ。


特に、それが事実であることを否定する、確かな根拠は無い。

平安時代の法令集『延喜式(えんぎしき)』に、外国に使節を派遣する時に「天神(てんじん=天つ神)・地祇(ちぎ=国つ神)」を祭る規定がある(巻第3)。その源流は、この時の行事だった可能性がある。

妹子らは、5世紀以前にわが国が中華帝国の(形式上・名分上の)属国と位置付けられていた、シナ中心の国際秩序である冊封(さくほう)体制からの「離脱」を隋側に伝える、重大かつ困難な使命を担った(5世紀末~6世紀一杯は外交関係が無かった)。


「天皇」という君主号が登場し、国号が「日本」に転換するのは、その延長線上のことだった。この場面で、わが国は有史以来、最大の“岐路”に立っていたとも言える。

「歴史」への回想は、正(まさ)にこのような、「未来」を切り開く為に“大胆な”決断が求められる局面でこそ、真剣・切実になされる。その真剣な回想から、神々への祭祀の大切さが改めて銘記された事実は、重要だ。推古天皇の治世(ちせい)は、特筆すべき仏教興隆の時代だっただけに、一層、興味深い。

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