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執筆者の写真高森明勅

高峰秀子の「8月15日」

更新日:2021年1月27日

高峰秀子の「8月15日」

往年の国民的大女優、高峰秀子。その美貌と演技力から、日本映画史上最高の名女優との評価もある。代表作は「二十四の瞳」「浮雲」「喜びも悲しみも幾年月」「名もなく貧しく美しく」など。


彼女が終戦を迎えたのは二十歳の頃。8月15日は、軍慰問用の映画を撮影する為に、千葉県の館山(たてやま)に入っていた。同地には館山航空基地があった。だから滞在中、現地でB29の空襲も体験していた。


15日の正午、昭和天皇の「玉音(ぎょくおん)放送」を雑音だらけのラジオで聴いた。放送自体は「なにがなにやらチンプンカンプン」だったという。しかし、程なく敗戦を知る。


その夕暮れ。

「館山の街は騒然としていた。耳をツン裂くような爆音を立てて、宿の屋根スレスレに飛び交う飛行機から、『徹底抗戦、われわれは死ぬまで闘う!』と書かれた、インクの匂いも生々しいガリ版刷りのビラが紙吹雪(ふぶき)のように撒(ま)かれ、宿の庭には、つい今朝までは明るい笑顔で挙手の礼もすがすがしかった顔見知りの甲板(かんぱん)士官や将校たちが、酒気を帯び、抜き身の日本刀をかざしてなだれ込んで来た。


ランニングシャツ一枚の彼らの眼は赤く血走り、『エーイッ、ヤーァッ!』と鋭い叫び声をあげながら、庭の木々をめった打ちに斬りまくった。(略)『明日からどうなるのだろう…』考えても仕方のないことを、私はうつらうつらしながら考え、いつか眠っていた。

再びキィーッ!という飛行機の爆音に、私はビックリして飛び起きた。時計は12時をまわっていた。


飛行機の轟音(ごうおん)はあとからあとから、宿の真上をひっきりなしに通りすぎて、海の彼方に消えていった。『戦争は終わったというのに…なんのために…』私の脳裡に、夕方、吹雪のように空から降ってきたビラの文句が思い浮かんだ。『徹底抗戦、われわれは死ぬまで闘う!』闘うことのみ教育され、闘って死ぬことだけをたたき込まれて突然、闘う相手を失った彼らのやり場のない絶望感は、『自爆』によってしめくくりをするよりほかになかったのか。


飛行機の腹に何本の爆弾を抱えて飛び立ったかしらないけれど、零戦に積まれる燃料の量はしれている。果てしなく続く暗い海の上を飛び続けて、いつかガソリンの最後の一滴が切れたとき、そこが彼らの墓場になるのだ。私はいても立ってもいられない気持ちだった。

『戦争は終わったのに…』屋根の上を通りすぎてゆく爆音を聞きながら、私はただ呆然(ぼうぜん)と、蚊帳(かや)の中で膝を揃えて座っていた」(『私の渡世日記 上』昭和51年)


うら若き女優が夜、蚊帳の中で不安と悲しみを抱えつつ、粛然といずまいを正しいる宿の上を、もはや敵を喪った戦闘機が爆音を轟(とどろ)かせながら、ひっきりなしに海の彼方へと飛び去って行く。そんな「8月15日」の光景もあったのだ(深夜の12時を回っていたなら厳密には16日だが)。


あの戦争が、あの時点で、あのような形で、概(おおむ)ね“静かに”終結を迎えたのは、現代の日本人がしばしば錯覚しているのとは違って、実に至難なことだった。その事実を忘れてはいけない。


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