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  • 執筆者の写真高森明勅

「憲法十七条」の信憑性


「憲法十七条」の信憑性

「憲法十七条」の信憑性


今年、編纂(へんさん)千三百年を迎えた日本書紀。

その様々な記事の中でも特に注目すべき1つが、推古天皇の統治を支えた聖徳太子の憲法十七条だ。


しかし、その信憑性を疑う意見が根強くあった。

だが近年の歴史学界では、基本的に信頼して良いとする見方が有力だ。

以下の通り。


「憲法十七条については…当時に実際に作成されたものか、作成者は『日本書紀』が記すように聖徳太子かということが議論されてきた。

その内容は、当時のものとして不都合はないとの見解が、近年は強い。

実際…隋に従い礼の秩序を受容するためには、規範意識を、大王や太子と大臣や諸臣との間で共有することが必要であった。

特に603年から604年にかけては、礼の秩序の1つの柱である宮廷儀礼が整備された時期であった(憲法十七条の制定は604年―引用者)」(石上英一氏)


「憲法十七条については、後世の述作とする説があり、少なくとも修正・加筆されている可能性はある。

しかし、『それぞれの官司に任じられた者は、みな自分の官司の職務内容を熟知せよ』(13条)といった、きわめて具体的な命令もふくまれており、冠位十二階を実施して、新しい官人(かんじん)制を創り出そうとする、この時代の潮流にふさわしい内容もふくんでいる」(吉田孝氏)


「単純な偽作説には慎重にならざるをえない。

…憲法には…官人の規律が含まれているものの、勤務日数など律令制的な勤務条件は規定されていない。憲法十七条は、律令制支配の前段階の支配の仕組みとして構想されたのではなかろうか」(吉村武彦氏)


「この時期に何らかの訓令が出されたとしても不自然ではないと考える。

むしろ十七条の冒頭で仏教(第2条)と礼(第4条)を重んじよと述べているのは、推古朝の政治方針とまさに適合的である。

…逆に天武朝以降になると仏教は国家イデオロギーとしてはやや後退するため、その時代の述作なら『篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬え』を第2条に据えるであろうか。

…憲法十七条は、後世の潤色が入っている可能性はあるが、基本的には推古朝当時のものと認めてよいと思われる」(吉川真司氏)


「その内容の素朴さは、かえって当時の未熟な政治体制を表すものである。

…その主文自体は、この時に出されたと考えるべきであろう」(倉本一宏氏)


「憲法の第2条に『篤く三宝を敬え』(仏教をあつく信仰しなさい)とあり、続く第3条に『詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必ず謹(つつし)め』(天皇の命令には必ず従いなさい)という文が置かれている…日本の律令制のたてまえでは、(仏教は)天皇や朝廷があってこその存在だった…(推古朝という)稀(まれ)に見る仏教尊重の時代だったからこそ、こういう構成の憲法がありえたので、『日本書紀』の編纂が進行する時代に作られた憲法だったら、2条と3条は入れ換わっていたはず…これは、憲法が7世紀後半以降のものでない証拠になる」(東野治之氏)


― なお倉本氏は、聖徳太子自身が「制定したということにこだわらなければ」という留保を付けていた。

一見、学問的な慎重さを示すようだが、むしろ聖徳太子「架空」説が反響を呼んでいた当時の“空気”への、非学問的な忖度(そんたく)を感じてしまう。

“制定者”という憲法十七条の根幹に関わる記事を疑いながら、一方で憲法そのものは肯定するという態度は、史料批判としての一貫性と説得力を持ち得るのか。

そもそも、同憲法の制定者が聖徳太子でなかったとすれば、一体、誰だったと考えるのだろうか。

独自の史料価値を評価されている(日本書紀よりも「一段と簡素、古様」〔東野氏〕とされる)『上宮聖徳法皇帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』にも、「聖徳王…十七条の法を立つる也」と明記する。


念のため。

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