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中江兆民における「政府」と「天皇」

執筆者の写真: 高森明勅高森明勅

更新日:2021年1月24日

明治の自由民権運動において巨大な存在感を示した中江兆民。 その思想については、以下のような整理がある。


「かれが日本という地の条件に即して考えたところの民権政体は、格別に革命的なものではなく、立憲君主政体であった。『三酔人経綸問答』の中で、それは南海先生の結論的言葉として明瞭に語られているとおりである。…『三酔人経綸問答』とあい前後して出版された 『平民の目ざまし』の中で語られている国体論と、南海先生の結語の間に一分(いちぶ)の間隙もないことを見れば明らかに証明される。


『平民の目ざまし』の中で、兆民は政治の目的が人民の権利を守ることであり、政府は、その目的を達する手段にすぎないとの民権の大義を、平易に力強く説得している。

官尊民卑の風習を痛烈に批判し、人民こそが主人であり、政府の官僚は番頭にすぎないとして、民尊官卑を強調する。かれは、議会が人民の意思を代表して行動すべきはもちろんのこと、政府の進退もまた議会によって支配されることを当然であるとしている。


…『平民の目ざまし』の著者が、帝国憲法の発布を見たときに、そこに議会の権限の弱小にして政府の権限の強大なのに失望を感じたのは、自然の論理というべきであろう。


けれども兆民が、帝国憲法に失望を感じたという事実をもって、兆民が日本の国体そのものに否定的な思想をもっていたかのように推測するのは、大きな誤解である。


兆民は、天皇が、政府対議会の政治的対立関係に介入することなく、より高い精神的権威をもって、国民精神の統合を保つべき地位を確保されるのを切望した。…兆民の思想は政府対人民という関係については、徹底して民権的であり急進的でもあった。しかし、その政府というのは…『有司専制政府』であって、政府と天皇の間には、あくまでも明確な区別を設けている。 しかしてかれは、国体というものに対しては、当時の政府の欧化主義的官僚などよりも、むしろはるかに精神的な重みを感じ、敬意を表しているのである」(葦津珍彦「明治思想史における右翼と左翼の源流」)


『平民の目ざまし』(明治20年8月刊行)の一節を紹介する。


「天子様の尊き事は上も無き事にて、国会や我々人民や政府や皆(みな)孰(いず)れが尊く、孰れが卑(いやし)きと言ふ事が出来るなれど、天子様は尊きが上にも尊くして、外(ほか)に較(くら)べ物の有(あ)る訳のものでは無い。…天子様は政府方でも無く、国会や我々人民方でも無く、一国衆民の頭上に在々(ましまし)て、別に御位を占(しめ)させ給(たま)ふて、神様も同様なり」―

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