
2月23日は天皇陛下の65歳のお誕生日だった。心からお祝いを申し上げる。
終日、雨に祟られた昨年と違い、快晴の一日だった。
昨年の一般参賀での光景は、拙著『愛子さま 女性天皇への道』
(講談社ビーシー/講談社)で取り上げた(183ページ〜)。
その時は、シンガポールの青年と結婚して同国に住んでいる長女が日本に帰国していたので、一緒に参賀に行った。今年は、別に暮らしている長男から、娘(私にとっては孫娘)と参賀に行くので合流しないかと誘われていた。孫の顔を見るのも久しぶりだ。しかし、あいにく風邪気味だったので出掛けるのを控えた。
天皇誕生日、皇居での行事は宮中三殿で執り行われる「天長祭」から始まる。
“天長”とは漢籍の『老子』に出てくる「天長地久」に由来し、天皇が幾久しくお健やかにあられることを願う気持ちを込めた語だ。
元々、天皇のお誕生日は被占領下(昭和23年7月)に制定された今の祝日法で「天皇誕生日」と名称が変更されるまで、明治(11月3日)·大正(8月31日)·昭和(4月29日)時代には、「天長節」と呼ばれていた。祭祀の呼称も「天長節祭」だった。それが天長祭に改称された。
皇室祭祀には「大祭」と「小祭」の区別がある。
大祭には天皇ご自身が「御告文(おつげぶみ)」を奏され、他の皇族方もお出ましになる。
但し殿内での作法は天皇皇后(現在、皇后陛下はご療養中の為、多くはご遥拝とお慎み)、皇太子同妃(皇太子不在の場合は皇嗣同妃)のみで、他の皇族方は庭上の幄舎にて参列。
一方、小祭では天皇は拝礼されるのみであり、お出ましも天皇と皇太子(皇嗣)に限られる。
但し、孝明天皇例祭(1月30日)など先祖祭りに当たるものは、小祭でもお気持ちにより他の皇族方もお出まし。
興味深いのは、皇室の中心に位置される天皇のお誕生日に際して行われる天長祭が、大祭と比べて扱いが軽い「小祭」とされている事実だ。これは、皇室祭祀が天皇ご本人の為の祭祀ではなく、皇祖·天照大神をはじめとする皇室の祖先への崇敬を軸として構成されている事実を示している。
祭典の後、天皇皇后両陛下は宮殿に移られる。先ず、両陛下は宮内庁長官はじめ同庁職員(代表)や皇宮警察本部長はじめ同本部職員(代表)などから祝賀を受けられる(祝賀)。
その後、長和殿のベランダにお出ましになり国民から祝賀を受けられる(1回目)。
次に、正殿·松の間にて天皇陛下が皇嗣同妃両殿下はじめ皇族各殿下方から祝賀を受けられる(祝賀の儀→①)。
更に、同梅の間にて皇后陛下が皇嗣同妃両殿下はじめ皇族各殿下方から祝賀を受けられる(祝賀)。
再び長和殿ベランダにて国民からの祝賀を受けられる(2回目)。
その後、元皇族およびご親族から祝賀を受けられる(祝賀)。「元皇族」=旧宮家系子孫と誤解している向きもあるようだ。しかし、かつて一度も皇籍になかった人は勿論、“元”皇族ではない。
元皇族は改めて言う迄もなく、かつて皇籍にあられた方々であって、黒田清子様などを思い浮かべると分かりやすいはずだ。
旧宮家系の人々の場合は、既に80年近く前に皇籍から離れている。
なので、この言葉に当てはまるのはご高齢の方々に限られる(養子縁組プランの対象者となる人物は勿論、その親もこれに含まれない)。
それから、長和殿ベランダにて国民から祝賀を受けられる(3回目)。
参賀に参加した人の中には、「皇室の方々は、ベランダにお出ましになる前に、奥では何をされているのだろうか?」といった素朴な疑問を抱く人もいるようだ。上記のように、両陛下は国民にお姿を見せられるお出ましとお出ましの間にも、行事が立て込んでいるのが実態だ。
午後から、両陛下は松の間にて内閣総理大臣はじめ三権の長らから祝賀を受けられる(祝賀の儀→②)。これに続き、今年は5年ぶりに豊明殿にて、規模を縮小しながらも、飲食を伴う「宴会の儀」が首相らを招いて行われた。
その後、旧公家(くげ)の子孫で構成される堂上会の総代から祝賀を受けられる(祝賀)。
次に元宮内庁長官、元宮内庁次長、元式部官長、元側近奉仕者、元参与(代表)などから
祝賀を受けられる(祝賀)。
更に春秋の間にて、各国駐日大使とその配偶者らから祝賀を受けられる(祝賀の儀→③)。
以上で宮殿での行事が終わり、両陛下は仙洞御所にお出ましになり、上皇上皇后両陛下にご挨拶。御所にお戻りの後、敬宮殿下もご一緒に侍従長はじめ侍従職員らと祝賀。
ーというのが、当日の行事の流れだった。
この日に行われる3つの「祝賀の儀」(他の「祝賀」とは区別される)に目を向けると、天皇というお立場が①皇室の長であり、②わが国の公的秩序において三権の長より上位=頂点にあって、③形式の上で国際社会に対して日本国を代表しておられることを、儀式を通じて明らかにする意味を持っている、と理解できる。
これらのうち、②③は天皇が「日本国の象徴」であられることを、“目に見える”形で確認するものと言える。一方、参加者が狭く限定される「祝賀の儀」とは異なり、各地から幅広い国民が(社会的身分などに関わりなく)参加する宮殿東庭での「一般参賀」は、まさに「国民統合の象徴」に相応しい行事だろう。
一般参賀の起こりとその後の変遷については、「新年一般参賀」に力点をおいて以下の拙稿で整理した。プレジデントオンライン「高森明勅の皇室ウォッチ」令和4年12月23日公開「『昭和天皇は突然吹きさらしの屋上に現れた』新年一般参賀が今の形に定まった意外すぎるきっかけ」。
この日、参賀に訪れた人々は記帳者も含めて2万3000人余りだった。
天皇陛下はマイクを通して、国民に次のようにおっしゃって下さった。
「ここ東京では梅の花も咲き、
春が一歩一歩近づいていることを感じます。
全国各地の皆さんにとって、
穏やかな春が訪れるよう願っております」と。
国民としては、皇室にも真に「穏やかな春」が訪れる日を願って、微力を捧げたい。
追記
今月のプレジデントオンライン「高森明勅の皇室ウォッチ」は2月28日に公開。
編集部がつけたタイトルは「愛子さまには結婚後も皇室にとどまる覚悟がある…では佳子さまは?皇室研究家が指摘『政府の残酷な仕打ち』ー彬子女王『私に選択権はございません』」。