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執筆者の写真高森明勅

昭和天皇と原爆①敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ…


昭和天皇と原爆

人類史上、初めて投下された原爆に対して、誰よりも早く、公式な形で糾弾の声を挙げられたのは、昭和天皇だった。


昭和20年8月14日に下された「終戦の詔書」の中に、次の一節がある。


「敵ハ新(あらた)ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(しきり)ニ無辜(むこ)を殺傷シ惨害ノ及フ(ぶ)所真ニ測ルヘ(べ)カラサ(ざ)ルニ至ル」


これが、原爆投下に対する満腔の怒りを表明したものであることは、改めて言う迄もあるまい。


詔書原本の写真を拝見すると、「テ頻ニ無辜ヲ殺傷シ」という強い非難の意志を示した部分が、後から書き加えられたことが分かる。勿論、通常ならこのような場合、初めから全文を書き直す為に、後から挿入した部分は判別できない。


だが一刻を争う非常時だったので、詔書の原本に挿入した文字がそのまま残る、異例の形になった。


この事実によって、原爆投下への憤りの強さがより切実に伝わる。


以下、昭和天皇と原爆を巡るいくつかの事実を紹介する。


被占領下の昭和22年12月7日、昭和天皇は戦災に傷付き悲しむ国民を慰め励ます為に全国を巡られる巡幸の一環として、広島市を訪れられた。


その時の様子を、地元の「山陽新聞」が以下のように伝えている(鈴木正男氏『昭和天皇の御巡幸』から再引用)。


「平和の鐘がカーンカーンと静かに人の心を揺り動かしてなりひびく中をあづき色のお召車はスピードを落として相生橋の上にさしかかれば、期せずして万歳の声が爆心地にとよもし、本川の清流に響いた。


この時に御車中の陛下はさっと口唇を引締め、平和塔の方に心持ち顔をむけられて市民に会釈されながら市民歓迎場にお着きになった。…広島鉄道局のバンド吹奏に7万の歓迎者は君が代を合唱、期せずして『万歳』が場内を圧する。


…陛下は深くうなづかれ、右側のオーバーのポケットから小さな紙片を出されてマイクに向い朗々たる御声で、


『このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思う。本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思う。広島市民は復興に努力し、世界の平和に

貢献せねばならぬ』と激励になり、慈愛深く市民の群を眺められた。…」


当時の写真を見ると、後方に原爆ドーム(元広島県産業奨励館)が見える元広島護国神社前の

広場に設けられた市民歓迎場に、驚くほど多くの人々が詰めかけていた様子を確認できる。


記事に「7万の歓迎者」とあるのも、誇大な数字ではなかった。


この時に、昭和天皇は次の御製を詠まれた(「被爆地広島にて」)。


ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ 

たちなほる見えて うれしかりけり

(続く)



※画像:朝日新聞社「朝日歴史写真ライブラリー 戦争と庶民1940-1949 第4巻」より。


【高森明勅公式サイト】

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