奈良時代の光明皇后は、皇族以外で初めて皇后になった人物として、よく知られている。
しかし、「皇后」になっても皇族の身分は取得していない。
こちらの事実は案外、知られていないのではないか。
改めて指摘するまでもなく、律令制が採用されて以降、皇族は法的に定義された身分だ。
律令制下の皇族は主に「皇親」と呼ばれ、①天皇のご兄弟姉妹、②天皇のお子様、③天皇から4世までの子孫に限られた(「継嗣令」、なお一時期だけ5世まで皇族とされたことがあった)。その後、世襲親王家が成立し、皇族の概念がいささか拡張されている。
しかし注意すべきは、天皇・皇族の婚姻相手は、元からの皇族でない場合、非皇族のままだった。従って、先の光明皇后も皇后になっても藤原氏のままだ。
光明皇后の有名な書に「楽毅論(がっきろん)」(正倉院宝物)があり、謹直・敬虔な筆跡がお人柄を偲ばせる。その末尾に、「藤三娘」と“藤原氏の第3女”である旨の自署があるのは、元は藤原氏の出ということではなく、現に藤原氏の女性であることを示す。
ところが明治の皇室典範では、皇后や親王妃・王妃なども皇族に含まれるように、法的な定義が変更された(第30条)。現在の皇室典範もそれを踏襲している(第5条)。
その為に、皇后や妃など天皇・皇族の婚姻相手が前近代からずっと皇族だった、と早合点している向きもあるようだ。あるいは、一般に国民の家庭でも配偶者は同じ家族とされていることから類推して、漠然とそのように思い込んでいるのではないか。これについては以下のような指摘がある。
「明治民法により、妻は婚姻によって夫の家に入り(第788条)、その家の氏を称する(第746条)ことになりました。…民法により(それまでは“夫婦別姓”だったのが変更されて)『夫婦同姓』となったのです。…民法学者は夫婦の一体化という西洋の考え方にもとづき明治民法に
導入されたと解説しています」(中村敏子氏『女性差別はどう作られてきたか』)
明治典範で皇后や妃などが皇族とされるに至った背景には、こうした「夫婦の一体化という西洋の考え方」があったと推測できる。
大正天皇の即位礼で歴史上初めて、天皇の高御座(たかみくら)の隣に皇后の御帳台(みちょうだい)が並んで据えられ(但し、貞明皇后はご出産を控えておられた為にお出ましは無かった)、以後それが踏襲されている(実際に皇后がお出ましになられたのは昭和天皇の即位礼から)。
これも、上記の「考え方」がベースになっているだろう。
なお念の為に、前近代において非皇族として嫁いだ皇后や妃などが皇族に含まれなかったことについて、これまでの指摘の一部を紹介すれば以下の通り。
「皇族に当るものを大宝・養老令制に求めると、皇親の制があるがこれには太皇太后以下三后(太皇太后・皇太后・皇后)や親王妃・王妃などは含まれず、現制の皇族とかなり違った面もあった」(橋本義彦氏執筆、児玉幸多氏編『日本史小百科 8 天皇』)
「(諸史料から判断すると)親王・王の配偶者は、内親王・女王でない限り皇親とは認められなかったと推測される」(宮内庁書陵部『皇室制度史料 皇族 一』)
「親王・王の配偶者が皇親の範囲に入るか否かについては…もともと内親王・女王として皇親でない限り、配偶者であることのみをもってしては皇親とは認められなかったと推測されている」
(園部逸夫氏『皇室法概論』)
「(非皇族の)子女で皇親に嫁した場合、皇族の範疇に入らないが、一方、内親王、女王で臣家に降嫁した場合、皇族の列を離れることはなかった」(米田雄介氏執筆、皇室事典編集委員会編著『皇室事典』)
一部に、非皇族の場合、男性だけが歴史上、長く皇族の身分を取得できなかった、との勘違いもあるようだ。しかし前近代においては、男女を問わず非皇族の身分から皇族に変更されることはなかったと見られている(つまり先例は無し)。
それを大胆に変更して、元は非皇族だった皇后・親王妃・王妃も“婚姻によって”皇族の身分を取得するようになった。それに違和感を感じている人はほとんどいないはずだ。
ならば内親王などの配偶者が、“婚姻によって”皇族の身分を取得できる制度(その場合は勿論、男性皇族と同じく皇室会議が介在する)を採用しても、それは(既に“先例”があるので)突飛な変更ではあるまい。
よほど極端に「男尊女卑」の観念に凝り固まっている人を除き、素直に受け入れられるだろう。
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