作家の赤坂真理氏が次のような一文を書いておられた。平成26年の文章だ(『愛と暴力の戦後とその後』)。
「私は、敬宮愛子様の母親である雅子妃のことを、以前、ちょっと気味の悪い人だと思っていた。公務を果たせとか鬱がどうのという話ではない。もし私が小学生だったとして、あるクラスメートの母親が、毎日わが子を心配して『一人参観』しに来ていたら、そらちょっとそのおばさん気味が悪いだろ。そのくらいの気持ちだった。
けれど、あるときふと、愛子という子供の目線になってみたとき、世界はまるで違って見えたのである。
敬宮愛子という女の子は、生まれてこのかた、『お前ではダメだ』という視線を不特定多数から
受け続けてきたのだ。それも彼女の資質や能力ではなく、女だからという理由で。
それは、どうにもならない。
ゆくゆく彼女の時代となることを視野に入れた女性天皇論争も、国会での議論が、秋篠宮家に男児が生まれた瞬間に、止んでしまったのだ!
もう、彼女が彼女であることそのものが、無意味と言われているのと一緒である。彼女は生まれながらに、いてもいなくてもよくて、幼い従兄弟の男児は、生まれながらに欠くべからざる存在なのだ」
わが国の政治(政府・国会)は敬宮殿下に対して、畏れ多いが「(天皇・皇后両陛下のお子様であっても)お前ではダメだ」「いてもいなくてもよい」という視線を、そのご誕生以来、変わらずに向け続けて来た。
国民も無関心なままそれを見逃して来た。何とも申し訳ない残酷な事実ではあるまいか。