現在の天皇陛下は「第126代」の天皇とされている。天皇の“公式の代数”はもちろん「皇統譜」に基づく。その皇統譜は政令である「皇統譜令」(昭和22年5月3日)による。
ところが、その皇統譜令の第1条は以下のような条文になっている。
「この政令に定めるものの外、皇統譜に関しては、当分の間、なお従前の例による」
つまり、大幅に旧皇統譜令(大正15年、皇室令)及び同令施行規則(同年、宮内省令〔勅裁省令〕)に依拠していることになる。
いずれにせよ、天皇の公式の代数は皇統譜令に法的根拠を持つ「皇統譜」による。
では、皇統譜上の代数が定まった経緯はどのようなものだったか。およそ以下の通り。
①明治3年に、次の3代の天皇が追加された。
・弘文(こうぶん)天皇(大友皇子、第39代)
・淳仁(じゅんにん)天皇(第47代)
・仲恭(ちゅうきょう)天皇(第85代)
歴史上、淳仁天皇は「淡路廃帝(あわじはいてい)」、仲恭天皇は「九条(くじょう)廃帝」などと呼ばれていた。“廃帝”とは畏れ多いが強制的に地位を追われた天皇を指す。しかし、即位の事実そのものを疑う理由はない。
但し、弘文天皇については即位された事実はなかったと考えられる(詳しくは拙著『日本の10大天皇』第4章参照)。
②明治44年に、南北朝時代の南朝と北朝のどちらを正統と見るかという論争が政治問題化し、
明治天皇ご自身の勅裁という形式によって、南朝が正統とされた(但し、明治天皇ご自身の血統は北朝の系統)。これによって、北朝の天皇が外され、南朝の天皇だけが歴代に数えられることになった(但し、北朝の天皇も皇霊祭祀の対象から除外されることはなかった)。
③大正15年に、南朝の長慶(ちょうけい)天皇(第98代)の即位の事実が(主に八代國治〔やしろ・くにじ〕博士の研究により)史料上、確かめられたので、新たに歴代に加えられた。
なお、神功(じんぐう)皇后(第14代・仲哀〔ちゅうあい〕天皇の皇后)は古代の文献でも「天皇」として扱う例がいくつもあったが(日本書紀は天皇とはしないが、ほとんど天皇に準じた異例の扱い方)、天皇と認めないことになった。
以上の経緯によって皇統譜上の歴代天皇の代数が固まり、今上(きんじょう)陛下は「第126代」とされることになった。
なお、ここで紹介した制度的経緯とは別に、歴史学上の議論が自由闊達(かったつ)に行われるべきことは、改めて言うまでもない。
私自身も、例えば皇統譜における弘文天皇の位置付けを国民の一人として尊重しながら、史実として即位はなかった点について、自らの学問的見解を曖昧にするつもりはない。