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  • 執筆者の写真高森明勅

旧宮家の血縁の遠さ

更新日:2021年5月14日


旧宮家系国民男性は皆さん、天皇から遥かに血縁の遠い人達ばかり(20世以上)。法的規範として最初に皇族を定義した大宝・養老令では、4世(玄孫)までとの世代制限を設けた。


歴代天皇の中で例外的に飛び抜けて血縁が遠かったのは5世(6世紀初めに即位された継体天皇)。この時は血縁の遠さから、“入り婿”型の皇位継承を余儀なくされたと見られる。


明治の皇室典範では、明治天皇ご自身の皇位の安定継承へのご不安を背景に、前例のない永世皇族制(皇族のお子様は、天皇との血縁がどれだけ離れても、皇族であり続けられる)が採用された。


しかし一方では、天皇自ら世代限定制の妥当性をお認めになっていた(宮内庁『明治天皇紀』明治21年5月25日条)。実際に、後に皇室典範の増補という形で、事実上の方針変更に踏み切った(明治40年)。それでも、増加した傍系の皇族の一部の行動には、国民の尊敬を受けるべきお立場に相応しいとは言い難いものがあったのは、残念だ。


旧宮家系の天皇からの血縁の遠さについては、以下のような指摘がある。


「(旧宮家は全て伏見宮系だが)伏見宮はいまから600年以上前に天皇家から分かれた家である。したがって、近・現代の天皇との男系の血縁関係はきわめて遠い。


これに比べて、摂家(せっけ、摂関〔せっかん〕家とも。摂政・関白に任じられる家柄。近衛〔このえ〕・九条・二条・一条・鷹司〔たかつかさ〕家)などの名門公家の中には、江戸時代になり皇族が養子となって継いだところもある。


たとえば江戸初期の元和(げんな)年間に関白だった近衛信尋(のぶひろ)は後陽成(ごようぜい)天皇の皇子だし、江戸中期の天明年間にやはり関白だった鷹司輔平(すけひら)は、閑院(かんいん)宮直仁(なおひと)親王の王子で東山天皇の孫にあたる。


したがって、近衛・鷹司の人々は、明治になって続々と成立した伏見宮系統の宮家の皇族たちよりも、相対的に天皇家と血縁が近いといえるのだ。…時とともに希薄となる一方だった伏見宮家と天皇家の血縁を考えれば、明治初期においては両者は他人同然だったと見るべきだろう。


伏見宮系統の皇族の中にもこのことを自覚する者はおり、山階(やましな)宮晃(あきら)、小松宮彰仁(あきひと)、東久邇(ひがしくに)宮稔彦(なるひこ)などは、それを理由にした皇族の臣籍(しんせき)降下を主張したことがある」(浅見雅男氏『皇族と天皇』)


血縁の“遠さ”を理由に、傍系の皇族ご自身が皇籍離脱を唱えておられた。そのお1人だった東久邇宮稔彦王の系統から、世代的に“より一層”血縁が遠くなった人物に、新たに皇籍を取得して貰おうという意見が、男系論者の中から出ているのは、まこと皮肉だ。


しかも、東久邇家と昭和天皇との「女系」による血縁の“近さ”(2代目・盛厚〔もりひろ〕王に成子〔しげこ〕内親王が嫁がれた)を強調するあたり、もはや支離滅裂と言う他ない。

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