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  • 執筆者の写真高森明勅

昭和天皇の「女官制度」改革

更新日:2021年5月14日


明治の皇室典範では「庶出(非嫡出)子孫にも皇位継承資格を認めていた。しかし、昭和天皇はそれを事実上、無効にする女官制度の改革を断行された。側室制度を廃止されたのだ。

「女官には公的な『お役女官』と、(男系男子の)皇嗣(こうし)を絶やさないために側室を務める『オソバサン(お后〔きさき〕女官)』がいた。御側(おそば)女官は権典侍(ごんのてんじ)で、公(おおやけ)の場所にはいっさい出なかった」

「こうした…女官制度に、若い皇太子(後の昭和天皇)は反発した。大正11年(1922)1月28日、牧野(伸顕)宮相(宮内大臣)は皇太子に呼ばれた。

『殿下仰せに、自分の結婚も其(その)内行う事とならんが、夫(そ)れに付(つき)特に話して置き度(た)く考うるは女官の問題なり、現在の通り、勤務者が奥に住み込む事は全部之(これ)を廃止し日勤する事に改めたし』(『牧野伸顕日記』同日条)

…女官を日勤制にし、朝夕のことは女中(じょちゅう)任せにしてはどうかと、日頃考えてきたことを整然と語った。旧慣にズバリと挑戦したのである」

「女官制度の改革については、結婚のころまでになんとか形ができあがった。…最大のものは、女官を既婚の女性とし、側室制度を宮中から追放したことだ。大正天皇のときも『お控え』はいたが、皇后の監視が厳しかったという話もある。昭和元年(1926)12月31日の『東京朝日新聞』には、『廃止に決定した宮中大奥の制度…新帝の畏(かしこ)き思召(おぼしめ)し』とある」(高橋紘氏『人間昭和天皇』上巻)

現在の価値観で過去の制度を批判するつもりはない。

だが、現在および予想し得る将来において、側室制度を復活させたり、皇室典範を改正して非嫡出子孫にも皇位の継承資格を認めたりする事は、およそ想像し難い。


なお、9月9日のブログ「側室の実態」に「皇“居”の居住区域」とあるのは勿論「皇“后”の居住区域」の誤り。

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