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  • 執筆者の写真高森明勅

皇室典範が「男系男子」限定を採用したのはサリカ法の影響


サリカ法典のイメージ画像

皇室典範の第1条に次のように規定する。

「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」ここにある「男系の男子」という皇位継承資格の“縛り”を、わが国古来の伝統であるかのように錯覚している人が、意外と多い。

しかし勿論、事実ではない。



明治典範「男子」限定の根拠は?



それは、明治の皇室典範の規定をそのまま踏襲したに過ぎない。

明治典範の第1条には以下のような規定がある。


「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之(これ)ヲ継承ス」では、明治典範がこのような規定を設けた具体的な根拠は一体、何だったのか。

明治典範の起草に当たった柳原前光と井上毅がまとめた「皇室典範草稿」の該当条文の欄外に、「男系」限定の根拠として『日本書紀』にという書名が、注記されている。

一方、「男子」限定の根拠はどうか。


「孛・白・瑞」とあるのみ。


孛はプロイセン、白はベルギー、瑞はスウェーデンをそれぞれ指している。

これらは皆、その頃、サリカ法の影響によって王位の継承資格を「男子」に限定していた国々だ

(ベルギー・スウェーデンは今も君主制を維持するが、もちろん現在はそのような“縛り”はない)。


つまり、明治典範が「男子」限定という前例の無いルールを“新しく”持ち出したのは、わが国の前例や法規などに基づいたのではなく(現に、前近代には10代8方の女性天皇がおられた)、西欧のサリカ法の間接的な影響によるものだった。



サリカ法の王位継承への拡大適用



そのサリカ法については、以下のような指摘がある。


「フランスの王位継承について、当時(14世紀初頭)の法律家たちは、サリカ法を持ち出しました。このサリカ法には『サリカ領』を女性に継ぐことを厳しく禁ずる条文があり、それを根拠として女性の王位継承は否定されたわけですが、この『サリカ領』はローマ国家からフランク族出身の新しい兵士に譲渡された領地、即ち住民から徴収する税金をローマ軍の兵士に当てるための領地でした。


つまり、サリカ法が禁じているのは『ローマ軍の兵士の給料を勝手に女性の財産として相続させてはいけない』ということであったのですが、カペー王朝直系の王位継承問題が生じた14世紀初頭の時点では、そうした経緯は忘れ去られていました。


ローマ文明の影響を受けず、またキリスト教(カトリック)化していない古代フランク族の社会は女系社会でしたが、文明の発達と共に父系も重視されるようになり、父性を重視するカトリックの影響により父系が社会を貫く縦軸になっていたからこそ、そのようなサリカ法解釈が正当とされたのでしょう」(ポール・ド・ラクビビエ氏『国体文化』令和3年6月号)


王位の継承資格を男子に限定するのは元々のサリカ法の“拡大”適用であり、その背景にはキリスト教(カトリック)の影響があったというのだ。



キリスト教の「女性差別」



キリスト教が深く“女性差別”を抱え込んでいることについては、次のような指摘がある。


「西洋における女性差別の構造は、キリスト教の教えを基礎として作られました。…キリスト教の女性差別の教えの形成に最も大きな影響を持ったのは、初期のキリスト教会を確立する中心となった『教父』のひとりアウグスティヌス(354年~430年)です。


…(旧訳聖書)『創世記』の解釈から、キリスト教における女性差別の教えが導き出されました。…創造の始めから女性は男性の支配下にいるべき者とされ…女性は道徳的に劣る存在であって誘惑されやすいので、男性が支配下におき、押さえつけなければならないと教えられるようになりました」(中村敏子氏『女性差別はどう作られてきたか』)


つまり、明治典範で新しく採用された「男子」限定というルールは、キリスト教の女性差別的な価値観により拡大適用されたサリカ法の影響を受けた国々での、「男子」限定の王位継承制度を“手本”としていたことが分かる。


勿論、「2600年(!?)以上も続いて来たわが国固有の伝統」なんかでない。そのことは、(最も大切なはずの)国内での根拠を全く挙げることが出来なかった、典範の起草者自身が一番よく自覚していたはずだ。



『日本書紀』の背後に“シナ化”



では、同草稿が「男系」限定の根拠として『日本書紀』を挙げている事実は、どう捉えるべきか。

差し当たり2点、指摘しておく。


まず1点目。


わが国において、『日本書紀』が編まれる“以前”の5~7世紀にかけて、シナ文明の影響により、本来の「双系」的な血統観から「男系」重視へと、大きな変動があった(『「女性天皇」の成立』98~101ページ)。


特に、男系主義の制度化を意味した「男女の法」(645年に施行か)より“後に”同書がまとめられた事実は、軽視できない。同法については、「(日本固有の)古いしきたりをやめ、中国式に、男系主義を原則とした」

(井上光貞氏)と理解されている。


次に2点目。


同書自体がシナ歴史書の書きぶりから大きな影響を受けていたことは、改めて言及するまでもあるまい(日本古典文学大系『日本書紀 上』、新編日本古典文学全集『日本書紀①』、『新釈全訳 日本書紀 上巻』各「解説」など参照)。


江戸時代の国学者・本居宣長が同書に含まれる「漢意(からごころ=シナ的なものの考え方)」を手厳しく批判したのは、日本思想史上の著名な一場面だろう(『古事記伝』一之巻「書紀の論(あげつら)ひ」)。



シナの男尊女卑+キリスト教の女性差別



このように見ると、皇室典範において「男系男子」限定という新しいルールを導入することになった理由が、ハッキリと浮かび上がって来る。それは、シナの男尊女卑=男系絶対の観念と、サリカ法の王位継承への拡大を可能にしたキリスト教の女性差別の考え方という、外来の価値観の影響によるものだった。


それは勿論、わが国独自の伝統などではない。むしろ、わが国本来の「女性尊重」の伝統とは正反対、と言えるだろう。


しかも、世界中の君主の地位継承のルールで、今も「男系男子」限定をそのまま踏襲しているのは、「一夫多妻」を認めていない国では、日本以外は人口わずか4万人弱の“ミニ国家”リヒテンシュタインぐらいしかない。


同国は立憲君主制の看板を掲げながら、実態は絶対君主制に近いと見られている。

又、女性の参政権が認められたのは1984年(!)で、世界的に見てもかなり遅かった(わが国でも、「男系男子」限定を導入した明治典範が効力を持っていた当時、女性に参政権は無かった)。



サリカ法を死守したいのか?



皇室典範の「男系男子」限定は結局、シナ由来の男尊女卑=男系絶対の観念や、キリスト教の女性差別によって王位継承に拡大適用されたサリカ法の影響を受けた、元々わが国の歴史とは無縁な、“急拵え”のルールに過ぎない。

にも拘らず、皇位の安定継承への可能性や、皇室の存続そのものを“犠牲”にしてまで、もしそれを本気で死守(!)しようする人がいるなら、私にはそういう人達の考え方が理解できない。



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