• 高森明勅

昭和天皇と「旧宮家」の交流の実情を巡る貴重な調査報告

昭和天皇と旧宮家の交流の実情について、『昭和天皇実録』(全18巻)を基礎資料として、丁寧に調べた貴重な報告がある(勝岡寛次氏、『祖国と青年』令和3年5月号)。


少しコメントを加えながら、その一部を紹介しよう。


「私が『実録』で(いわゆる旧宮家が皇籍を離脱した後の)昭和23年以降40年間の記録を調べた限りでは…拝賀は新年と天皇誕生日の年2回、必ず行はれてゐます。

つまり、旧皇族には少なくとも年2回、さういふ拝賀の機会が必ずあるといふことです」


ここに「旧皇族」とあるのは、宮内庁は「元皇族」と表現しており、『実録』でも同様だ。

どちらも同じ意味だが、「元は皇族の身分だった」という事実は、“元皇族”の方が伝わりやすいかも知れない。


この「元皇族」には、旧宮家系男性の中で、昭和22年まで“実際に皇族だった”方々は勿論、その中に含まれる(いわゆる旧宮家が皇籍を離脱された“後”に生まれた人々、例えば前の日本オリンピック委員会の会長で、事情があって退任を余儀なくされた竹田恒和氏などは、生まれた時から国民なので、もとより対象にならない)。


しかし、それらの方々だけではない。

ご結婚によって皇籍を離れられた元内親王や元女王だった方々なども当然、含まれている。


新年には、新型コロナウイルス感染症の影響によって行事の規模が縮小される前は、2600人ほどの様々な立場の多数の人々が、拝賀をしておられる。


その中に元皇族の方々がおられ、更にその中に、旧宮家系でかつて皇籍にあられた方々(しかも旧宮家の場合は当主の系統に限る)も含まれる、ということだ。

この点、元皇族=旧宮家系の人々(生まれた時から国民の人々まで含む)と誤解している向きもあるようなので、念の為に言及しておく。



「宮中祭祀のうち、春秋の皇霊祭・神殿祭には旧皇族も参列できるように取り計らふ。

また、その他の大祭についても参列を可能にするといふことなのですが、私が『実録』の40年間の記録を調べた限りでは、宮中祭祀に旧皇族が参列したといふ記録はありません」



元々『実録』には、祭祀の参列者について一々記録されていない。だから、「記録はありません」というのは言わば当然。しかし、だからと言って、参列しておられなかったと速断する訳にはいかない(同報告では「判断を留保」)。


私がたまたま『実録』の昭和45年3月21日条(第15巻)を覗くと、同日の春季皇霊祭・同神殿祭の後に、昭和天皇・香淳皇后が吹上御所で、島津久永氏・同夫人貴子氏と「御夕餐を御会食になる」という記事があった。


改めて言う迄もなく、島津貴子氏は昭和天皇の第5皇女で、元清宮(すがのみや)貴子内親王(上皇陛下の妹宮)だ。

もとより旧宮家とは関係ないが(嫁ぎ先の島津家は旧薩摩藩主の家柄)、「元皇族」として祭祀に参列され、その後、「御夕餐」をご一緒された可能性があるのではないか。


今、詳しく調査する遑(いとま)が無いのは残念ながら、このように元皇族のご参列を示唆する記事は、他にもあるかも知れない。上記の報告では、もっぱら旧宮家系を念頭に調査されたようで、図らずも見落としが生じたのではあるまいか。



「実際に40年の記録を調べてみますと、大変な数の参内・拝謁が、旧皇族の方々によって行われています。但し、拝謁の回数は、旧宮家によつて極端な差があります。

他を圧して多いのは東久邇家で、40年で223回、拝謁した記録があります。この原因ははつきりしてゐて…昭和天皇の第1皇女・成子(しげこ)内親王(照宮、てるのみや)の嫁ぎ先が東久邇家だつたからです」


「参内・拝謁の回数は、成子妃(?ー民間に嫁がれた以上、“妃”はふさわしくないだろう)が亡くなった後の昭和40年代になると一層多くなり、年に10回以上に及ぶことも稀ではありません。若くして逝つた成子妃(?)に代わり、残された5人の孫たちの成長を見届けようとされた両陛下のご意向が働いていたことは明らかです」


これは大切な指摘だろう。


勿論、旧宮家一般の話ではなく、あくまでも昭和天皇の皇女が嫁がれた特別のケースだ。



「春秋に行はれる予定だつた定期の『御陪食・賜茶』が、『菊栄親睦会(きくえいしんぼくかい=任意団体で、成年の皇族方、旧宮家で“かつて皇族”であり、かつ“当主の系統”の方、

旧宮家の皇籍離脱以降、ご結婚により皇籍を離れられた女性方と、それぞれの配偶者が会員)』の定期的会合といふことになります。


『実録』を調査すると、その開催回数は40年間で45回に及んでゐます。

…これとは別に、皇室の慶事に際して臨時に持たれる、御陪食・賜茶の機会もあります。

…40年間でかうした御陪食・賜茶の機会は12回持たれています。

…ただかうした御陪食の機会は、両陛下(昭和天皇・香淳皇后)がお年を召した昭和50年代以降は、めつきり減つてきます」


この菊栄親睦会については、平成26年5月18日に開催された天皇陛下(今の上皇陛下)傘寿奉祝菊栄親睦会大会の後は、開かれていない。


「ここで特筆すべきは、園遊会における旧皇族の位置づけです。といふのは、『招待された者』の筆頭に『元皇族』の語があり、内閣総理大臣以下の諸員は、その後に位置づけられています」


しかし、これは当たり前だろう。


「元皇族」と言えば、想像しやすいように現在に当てはめると、上皇陛下のご長女で、天皇陛下の妹に当たられる黒田清子様など。そのようなお立場の方が、内閣総理大臣の後に回されるとは考えにくい。しかし、“迎える側”ではなく、あくまでも“招かれる側”にとどまる事実は重要だ。


更に、春秋の園遊会に招かれるのは、それぞれ約2000人。

その多くの人々の中に、元皇族も含まれ、その元皇族枠の中に、旧宮家でかつて皇族だった当主の系統の方々も招かれる、ということだ。


ー以上、ごく一端のみを紹介したが、このような根気のいる調査に当たられた熱意に、敬意を表したい。これによって分かるのは、昭和40年代迄は、昭和天皇と旧宮家の間に、それなりに疎遠ではない交流が続いていた、という事実だ。


中でも、昭和天皇の皇女が嫁がれた東久邇家は、特別の扱いを受けていた時期があった。

しかし、歳月の流れは止(とど)め難い。

その東久邇家の当主の系統で、「女系」を介して昭和天皇の曾孫に当たられる征彦氏(未成年で未婚の男子が2人おられる)でさえ、まだ令和になる前、既に以下のように述べておられた。


「私は外野の人間…息子を愛子さまのお婿さんにだなんて…仮にそのようなご要請があっても、それは現実的に難しいかなと。そんな話になってもお断りさせていただくと思います。

息子には普通に生活してほしいと思っていますので」と。



これは、直接には「(ご子息を)愛子さまのお婿さんに」という問いかけへの回答だが、「普通に生活してほしい」以上、どのような形であれ、皇籍取得そのものを辞退する意思表示に他ならない。

長く国民として暮らして来たのだから、ごく当然の反応だろう。


「外野の人間」というのが正直な感覚に違いない。

いずれにせよ、一部で唱えられていた旧宮家案が、「憲法違反」の疑い(門地による差別)という致命的な理由によって、現実的な選択肢から除外されることは、当事者の人々にとって、皇籍取得への(“三顧の礼”などと称した)強制めいた圧力を受ける心配も無くなるので、良いことなのだろう。