スイス・ミューレンでの情景
数学者で作家の藤原正彦氏。奥様とご一緒に、亡き父、新田次郎ゆかりの地、スイス・ミューレン村を訪れられた。同村はアイガー、メンヒ、ユングフラウの3名峰に対峙する、切り立った崖の上の狭小な地にある。絶景なのに“隠れ家”のまま。そこで出会ったイギリス人親子とのやり取りを記されていた。
「夕食前の散歩中、小ぢんまりとした木造教会の芝生のベンチに腰をかけ、暮れなずむ山々を眺めている五十代半ばと思われる男性と、母親であろうか品のよい婦人に目が止まった。絵のような光景だったので、思わず話しかけた。
『よくこちらに来られるのですか』
『毎年母と来ています』
『この景色ですからね』。
母親が『初めて来た50年前はアイガーもユングフラウも全山真白でしたが、最近は温暖化のせいでしょうか、雪がすっかり後退しました』と言った。『どれ位滞在ですか』と聞き返すと母親が『2週間(fortnight)』と言った。
『英国の方ですね』
『どうして分かりました』
『英語です』。
2人はうれしそうにうなずいた。美しい英語やフォートナイトなどという単語は、英国中上流階級だけのものだからである。男性はバーミンガム近くの町の牧師だった。
『あなた方はどうしてここに』『作家だった父は55年前、憧れのアルプスを見ようと3カ月間スイスを回りました。私達はその時の父の足跡をたどるつもりです』。男性は『追憶の旅なのですね』と言うと何を思ったのか一瞬目をうるませ、私達から目を離すと正面の山々を無言のまま見上げた。しばらくして口を開いた。
『お子さんは』『碌(ろく)でなし息子達が3人います』。
男性は一笑してから急に真面目な顔となり、『あなたの言う碌でなし息子達が、55年後にあなた方の足跡を訪ねここに来ることでしょうね』と言った。話が弾み、辺りがすっかり薄暗くなったのでいとまを告げると、彼はベンチからすっと立ち上がりこちらに歩み寄ると、『あなた方と素晴らしいお話ができました。本当にありがとう』と言って私達に堅い握手をした。教会の細道を下りながら見上げると、アイガーの西壁が夕陽にほの赤く輝いていた」
―印象的な情景だ。バーミンガム近くの町の、急に目をうるませた牧師の男性は、ひょっとしたら彼自身の父親への「追憶」を呼び起こされたのかも知れない。