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  • 執筆者の写真高森明勅

「独断」「独裁」をするな!


「独断」「独裁」をするな!

「独断」「独裁」をするな!


聖徳太子の憲法十七条。

冒頭は有名だが、最後の条文を知っている人はどのくらいいるだろうか?

日本古典文学大系本によって引用しよう(但し一部改めた)。


「夫(そ)れ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。

必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし。

少(いささけき)事は是(これ)軽(かろ)し。

必ずしも衆とすべからず。

唯(ただ)大きなる事を論ふに逮(およ)びては、若(も)しは失(あやまり)有(あ)ることを疑ふ。

故(かれ)、衆と相弁(あいわきま)ふるときは、辞(こと)則(すなわ)ち理(ことわり)を得(う)」


独断・独裁を排除すべきことを強く唱えている。

念の為に現代語訳する。

「物事を独断で決めてはならない。必ず多くの人々と議論せよ。もっとも、細(こま)かいことは取るに足りないので、必ずしも人々に諮(はか)らなくてもよい。

大切なことを論じる時には、もしかして過失があるかもしれない。それゆえ、多くの人々と共に検討する時、結論は道理にかなうものになろう」


これが第1条の“議論の勧め”と対応していることは、誰でも気付くだろう。

どちらも「論ふ」=議論を重視すべきことを強調している。

その前提になっているのは、「達(さと)る者少なし」(第1条)つまり飛び抜けた賢者は殆(ほとん)どいない、という冷徹は人間観だ。


だからこそ、至らない者同士が互いに意見を出し合って、議論することに意味がある。

重大事に対し、道理にかなった結論を得る為には、衆議を尽くすことが欠かせない。

独断・独裁を避けるべきなのは、そこに根拠がある。

第10条で“異論への寛容”を説いた中にも、次のような指摘があった。


「他人の考え方が自分と違うからと言って、怒ってはならない。

人にはそれぞれ心があり、それぞれに“拘(こだわ)り”がある。

相手が正しいと思っても、自分は間違っていると考え、自分では正しいと思っても、相手は間違っていると考える。

しかし、自分が必ず飛び抜けた賢者で、相手は必ず呆れ果てた愚者であるとは、決まっていない。

共に平凡な人間に過ぎない。

どちらが正しいかを、片方の考え方だけで決めることが出来ようか。

互いに賢者であり愚者でもあって、耳金(みみがね=金属製の耳飾り)に端(はし)がないように、簡単には区別がつかない」


深い洞察だ。


正真正銘の“飛び抜けた賢者”だった聖徳太子(だからこそ、「聖徳」という最高の諡号〔しごう〕を贈られた)ご自身が、このように述べておられるのは、一段と重みがあるだろう。

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