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  • 執筆者の写真高森明勅

日本書紀の「倭」という表記


倭国

日本書紀の「倭」という表記

日本書紀にも「倭」という表記が皆無ではない。その中から興味深い例を1つだけ取り上げてみたい。


それは、天武(てんむ)天皇3年(674年)3月丙辰(ひのえたつのひ=7日)条の記事。ここにはっきり「倭国」という国号を確認できる。もし書紀が依拠した史料に「日本国」と書かれてあれば、当然、そのままの表記になったはずだ。この箇所は、書紀の編者が元の史料に「倭国」と書いてあったのを、本来なら全体の編集方針に従って「日本国」と書き改めるべきなのに、たまたま改め忘れてしまった珍しいケースだ。


しかし、そのケアレスミスのお蔭で、当時、まだ「倭国」という国号が維持されていた事実を知る事が出来る。言い換えると、この時には「日本」国号は成立していなかった。よって、「日本」国号の“上限年代”は、この時以降に押さえる事が出来る。


下限年代は、以前に指摘した『大宝令(たいほうりょう)』が施行された大宝元年(701年)。つまり、「日本」国号は674年より後、701年迄の間に成立した。ここでは詳しい検討には敢えて立ち入らないが、持統天皇3年(689年)だった可能性が最も高いだろう。同年6月29日に諸司に班賜(はんし)された『飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)』に、初めて「日本」国号が規定された可能性を想定できるからだ。


丁度(ちょうど)、皇室の祖先神で、“日(ひ=太陽)”の女神たる、天照大神(あまてらすおおみかみ)への崇敬が高まっていた時期だ。大神を祀(まつ)る伊勢の神宮の20年ごとの「式年遷宮(しきねんせんぐう)」が新しく開始されたのも、同じ頃だった(内宮〔ないくう〕の第1回遷宮が690年、外宮〔げくう〕のそれが692年だった)。

公民が育てた稲を、天皇が大神に奉(たてまつ)る国家的・国民的祭儀である大嘗祭(だいじょうさい)が制度上、確立したのも同時期の691年(天武天皇の時代はまだ過渡期)。


当時の日本人の信仰・心意に照らして、「“日”本」という国号の背景には、日の神=天照大神への崇敬観が明確に存在していたーと考えるのが自然だろう。

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