政治は変わらない、という言い方。
無責任で当事者意識ゼロ。 変えようとするか、しないか。
国民に問われているのは、それだ。 以前、紹介した京都帝国大学法科大学教授、佐々木惣一。 大正4年(1915年)3月に「一票の投げ所」という論説を 書いている(『大阪朝日新聞』同21日から25日迄連載)。 百年以上前の論説だ。 そこに「国民自ら責めよ」という一文が収められている。 その一部を紹介しておこう(『立憲非立憲』講談社学術文庫より)。
「形は他人の事のように見えて、実は自分の事である場合が、 世の中に多い。選挙は正しくそれである。 国民は近来代議士を罵(ののし)り、又(また)候補者 の下劣を嘲(あざけ)ること甚(はなは)だしい。 代議士の腐敗も候補者の下劣も事実であろう。 併(しか)し翻(ひるがえ)って考うれば、代議士の腐敗は、 実は之(これ)を代議士たらしめた国民の腐敗に基(もとづ) くことが多い。 又下劣な者が敢(あえ)て候補者に立つのは、 従来国民が下劣なものを選挙し来(きた)ったからである。 それ故に吾々(われわれ)国民は徒(いたず)らに代議士の腐敗や 候補者の下劣のみを責むべきではなく、寧(むし)ろ自らを 責むべきである。 …現今(げんこん)我が国民は一般に他を責めて自分を 責めないと云う風がありはしないかと考える。 そして、之が立憲政治の実現せられない根本の理由だと思う。 …それ故に、候補者の顔触(かおぶれ)を良くする為には、 先ず選挙人自ら覚醒せねばならぬ。 そこで…候補者の優劣の問題と共に、選挙人の覚悟の 問題が起(おこ)るのである」
これを現代に当て嵌めても、 殆どそのまま通用するのではないか。