高森明勅

2021年2月3日2 分

皇室に「姓」があった?

わが国の皇室には「姓(せい、シナ父系制に由来する男系血縁集団〔日本の場合は必ずしも厳密な意味ではない〕を示す呼び名)」が無い。

しかし、過去に自ら姓を名乗った一時期がある。それは5世紀だ。当時、シナ大陸は南北朝時代。その南朝の宋(そう)から冊封(さくほう)を受けていた。シナ王朝と形式上の臣属(しんぞく、臣下〔しんか〕として服属する)関係を結んでいたのだ。いわゆる「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」の時代に当たる。
 

『宋書(そうじょ)』を見ると、皇室は国名と同じ「倭」という姓を名乗っていたことが分かる。同書の「倭国伝」に「倭讃」(421年)とあり、「文帝紀」元嘉(げんか)28年(451年)7月条に「倭王倭済」と出て来る。
 

前者だけなら、「倭王讃」の略称と解釈できる余地もある。だが後者の場合、「済」という名前の前の「倭」は、明らかに“姓”と考える他ない。王ではないが、「倭隋」(438年)という人物名も確認できる。これも同じ一族の人物と見ることができるだろう。これらによって、この頃、皇室は「倭」の姓を名乗っていたと考えられる。

但し、それはもっぱら宋との冊封関係の中で、対外的な“仮の”姓として用いられたに過ぎなかったようだ。国内で同時代に倭姓を名乗った形跡は、皆無だ。稲荷山鉄剣銘(471年)や隅田(すだ)八幡神社人物画像鏡銘(503年)を見ても、倭姓は遣(つか)われていない。
 
倭王武(雄略天皇)の478年の使者派遣を区切りとして、事実上、宋との冊封関係にピリオドを打つ。再びシナ王朝との交渉を始めるのは、推古天皇の時代の第1回遣隋使(600年)から。もはや冊封関係には戻らなかった。
 

なので、姓を名乗ることも止めている(当初、隋側は「阿毎〔アメ〕」という姓を名乗っていると誤解したようだが)。以後、武家権力が一時的にシナ王朝との冊封関係を結ぶことはあっても、天皇ご自身がそうした関係に戻られることは、二度と無かった。その結果、対外的に姓を名乗ることもそのまま途絶えて、現代に至っている。

万が一、日本が朝鮮半島の場合のように、長くシナ王朝との冊封関係を維持していたら、皇室も「倭」という姓を帯びる結果になっていたかも知れない。わが国の場合、最初の女性天皇だった推古天皇が(シナ皇帝への臣属又は下位の地位を示す)「王」の称号を廃され、自ら(シナ皇帝の下位には立たない)「天皇」を称されることで(608年)、冊封関係から訣別(けつべつ)した。

それはシナ文明圏から脱却する第一歩であり、政治的自立への姿勢を表示する意味を持った。

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