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執筆者の写真高森明勅

平家物語で最も知られた場面を中世史専門家が読んでいない?



私の以前のブログを読んだ人からこんな質問を貰った。


「日本中世史が専門の歴史学者(東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏)が、自分でわざわざ伊勢神宮を取り上げて論及しているのに、南北朝時代まで存続していた天皇に代わって皇女などが伊勢神宮に仕える斎宮〔さいぐう〕の制度を知らなかったなんて、あり得るのでしょうか? 斎宮〔さいくう〕歴史博物館(三重県多気郡)という立派な施設までちゃんとあるのに」と。


こんな質問を貰っても、「“普通なら”あり得ない」としか、答えようがない。しかし、もしほんの僅かでもその辺りの“初歩的”な事実を知っていれば、


「『伊勢神宮と天皇家には深い関わりがある』という話自体がフィクションであり、明治になってから作られたのであろう」(本郷氏『日本史の空白』)


なんて恥ずかしい文章は、絶対に書けなかったはずなんだが…。


そこでもう1つ、「あり得るのでしょうか?」と首をかしげる話題を、質問される前に先回りして、付け加えておく。


中世史の文献で最も有名な1つは、『平家物語』だろう(同書の史料的性格については五味文彦氏『平家物語、史と説話』など参照)。


この物語の中で恐らく最もよく知られているのは、壇ノ浦の合戦で平家が敗れ、幼帝だった安徳天皇が入水〔じゅすい〕される場面だろう(巻十一、先帝御入水)。


その死に際して、安徳天皇を海底にお連れする「二位殿(にいどの=二位尼〔にいのあま〕、平清盛の未亡人・時子〔ときこ〕)」が、「先ず東〔ひんがし〕に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御暇〔おんいとま〕申させおはしまし…」と、幼帝に東方に向かい、伊勢神宮にお別れの祈りを捧げるよう促していたのは、原文そのものを読んだことがない人にも結構、知られているのではないか。


この場面の史実性の細かな詮索はともあれ、こうした場面が描かれ、広く受け入れられた背景には、当時、伊勢神宮と天皇・皇室との「深い関わり」が自明視されていた事実があったのは、改めて言うまでもない。


日本中世史が専門の歴史学者が、まさか『平家物語』で最も著名な場面すら読んでいなかった、なんてことがあり得るのでしょうか?と尋ねられても、先と同じように答えるしかない。


追記


プレジデントオンラインの今月の「高森明勅の皇室ウォッチ」が前倒しされて、7月15日に公開された。同じ記事が同日、Yahoo!でも公開されている。


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