• 高森明勅

被占領下の旧宮家の皇籍離脱を貞明皇后が是認された理由


被占領下の旧宮家の皇籍離脱を貞明皇后が是認された理由

いわゆる旧宮家は男系の血筋では、天皇からの血縁はすこぶる遠い(男系の血筋で言えば、江戸時代に後陽成天皇の皇子が養子に入った近衛家や、東山天皇の孫が養子に入った鷹司家の方が、

天皇との血縁は遥かに近い)。


その為、当の旧宮家の方々ご自身からも、皇籍離脱の声が挙がっていた。


「伏見宮系の皇族にもこのこと(血縁の遠さ)を自覚する者がおり、山階宮晃、小松宮彰仁、東久邇宮稔彦などは、それを理由にした皇族の臣籍降下(皇籍離脱)を主張したことがある」

(浅見雅男氏・岩井克己氏『皇室150年史』)。


被占領下の昭和22年に、血縁の遠い11宮家の皇籍離脱が行われたのは、それが別の形で実現したとも言える。


《これでいいのです》


その旧宮家の皇籍離脱に際し、宮内府(後の宮内庁)の皇太后職の庶務課長兼会計課長だった筧素彦氏が、当時、皇太后であられた貞明皇后(大正天皇の皇后)に「まことに恐れ入ったことで」と申し上げたところ、以下のようなご感想をお述べになった。


「これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまは少し良すぎました」

(筧『今上天皇と母宮貞明皇后』)と。


貞明皇后がこのようなご感想を述べられた背景には、戦前、傍系宮家の皇族が増え過ぎたこともあり、皇室の尊厳を損ないかねない不行跡がしばしば見られた事実があった。


《身をお慎みになって…》


当時、宮内次官だった加藤進氏が、皇籍を離脱される方々に次のように申し上げた。


「万が一にも皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの御覚悟の下で身をお慎みになっていただきたい」(『祖国と青年』昭和59年8月号)と。


これは率直に言えば、従前の不行跡による懸念があった為だろう。

昭和27年にサンフランシスコ講和条約が発効して、わが国が国際法上、独立を回復して以降も、それらの方々の皇籍復帰を求める国民の声は挙がらなかった。

一方、「身をお慎みになっていただ」けなかった事例がいくつもあったのは、残念だ。

いずれにせよ、当事者の方々は既にご高齢になられ、或いは亡くなられて、もはや「万が一」の場面もとっくに過ぎ去った。


《君臣の分義を厳かに守るために》


戦後の神道界、右翼・民族派の最大の思想家と呼ばれた葦津珍彦氏は、旧宮家について以下のように断言されている。


「その事情の如何に拘らず、一たび皇族の地位を去られし限り、これが皇族への復籍を認めないのは、わが皇室の古くからの法である。

…この法に異例がない訳ではないが…この不文の法は君臣の分義を厳かに守るために、極めて重要な意義を有するものであつて、元皇族の復籍と云ふことは決して望むべきではない」

(『天皇・神道・憲法』昭和29年)と。


現在の皇室典範でも、その趣旨を忠実に踏襲している。

皇室と国民を厳格に区別し、皇室それ自体の「聖域」性を守る為に、一旦皇籍を離れられた方及びその子孫は、二度と皇族の身分に戻れないルールになっている(第15条)。


《拒否反応がある》


更に、香淳皇后(昭和天皇の皇后)のご実家に当たる久邇家の当主で、旧宮家系の人々を代表するお立場にあり、伊勢神宮の大宮司や神社本庁の統理などを歴任された久邇邦昭氏(勿論、元皇族であられた)は、ご自身の著書の中で次のように語られた。


「旧皇族をまた皇籍に戻すべきだという意見もあるようだが、私はこれについては、『何を今さら』というのが正直なところ本心だ。…皇籍に復して国民の貴重な税金をいただくのには拒否反応がある」(『少年皇族の見た戦争』平成27年)と。


これが当事者として当たり前の感覚だろう。

ー以上、旧宮家を巡る初歩的な事実を、おさらい的にいくつか取り上げた。