• 高森明勅

「8月14日」という日

「8月14日」という日


今から75年前の昭和20年「8月14日」。 日本国の運命を決した1日だった。

既に同月10日、昭和天皇のご親臨を仰いだ最高戦争指導会議(御前〔ごぜん〕会議)において、ポツダム宣言を受諾して戦争を終結させる天皇のご意志が示されていた(第1回の聖断)。


ところが、わが国が“天皇統治の不変更を前提に同宣言を受諾する”旨を連合国に通知したのに対し、アメリカのバーンズ国務長官からの回答が不安を招く内容だった。


その為に、同日、再び御前会議が持たれることになった。 この会議の前には、本来は「終戦派」だったはずの鈴木貫太郎首相も、大きく動揺した場面があった。


その間、終始一貫、ポツダム宣言受諾の方針で全く揺るがなかったのは、他でもない昭和天皇ご自身だった。 しかし、一般に誤解があるようだが、帝国憲法は内閣・議会の同意なく天皇が独断で国政上の権限を行使“できない”仕組みになっていた。 従って、非常時といえども、昭和天皇もその制約の下に置かれていた。

その制約の中で、最大限、平和回復へのご努力を尽くされた。

この局面で最も危険だったのは、「抗戦派」の陸軍がクーデターを計画していたことだ。

『昭和天皇実録』の同日条に、次のような記事がある。


「午前7時、陸相(りくしょう、阿南惟幾〔あなみこれちか〕陸軍大臣)は軍事課長(荒尾興功〔おきかつ〕)とともに参謀総長(梅津美治郎〔うめづよしじろう〕)に対し、本日午前10時より開催予定の御前会議の際、隣室まで押しかけ、侍従武官をして天皇を御居間に案内せしめ、他者を監禁せんとするクーデター計画につき同意を求めるが、参謀総長は宮城(きゅうじょう、皇居)内に兵を動かすことを非難し、全面的に反対する」と。


畏れ多くも、兵を皇居に侵入させ、御前会議の場から昭和天皇を連れ出し、他のメンバーは監禁して、ポツダム宣言の受諾を阻止し、恐らく阿南陸相を首班とする抗戦内閣を作ろうとしていたのだ。


これに対し、(軍政のトップが陸軍大臣である一方)軍令のトップだった参謀総長が真正面から反対して、挫折させた。

梅津総長自身、強硬な抗戦派だっただけに、軍規を重んじた見事な対応だった。 これも、梅津に「今は御聖断に従うよりほかに道はない」(本来、聖断に“御”は必要ないが高木惣吉少将の手記のまま)と判断させた、昭和天皇の権威があればこそだった。


又、阿南の行動も、抗戦過激派の暴発を避ける為のパフォーマンス(擬態)だった可能性がある。


午前10時20分、昭和天皇は、在京の陸海軍元帥(げんすい)を宮中に召され、戦争終結への協力をお求めになった。

同11時2分、通常の内閣からの奏請ではなく、天皇ご自身のご意向という形で、御前会議が開かれた。 その開催が一刻を争う為。


しかも異例の「思召(おぼしめ)し」によって、全閣僚と陸海軍両総長、両軍務局長、枢密院議長ら政府・軍部全首脳を召集されたのだった。 そこでは、抗戦派の梅津総長、阿南陸相、豊田副武(そえむ)軍令部総長(海軍の軍令のトップ)の3人だけが、それぞれ涙ながらに抗戦を訴えた。 その後、昭和天皇が丁寧にお考えをお述べになった(第2回の聖断)。


「陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪(た)え難いことで、その心持(こころもち)は私にはよくわかる。 しかし自分はいかになろうとも、万民(ばんみん)の生命を助けたい。 この上戦争を続けては結局我が邦(くに)がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗(な)めさせることは私としてじつに忍び難い。 祖宗(そそう、皇祖皇宗=皇室の代々の先祖)の霊にお応えできない。 和平の手段によるとしても、素(もと)より先方の遣(や)り方に全幅の信頼を措(お)き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればまた復興という光明も考えられる」


―総力戦の時代に入って、敗戦国の君主制は例外なく滅びている。

第1次大戦のドイツ、オーストリア、ハンガリー、トルコなど(戦争処理を過ったロシアも)。


第2次大戦ではイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなど。 そうした世界史の大勢の中で、昭和天皇ご自身に「敗戦」の決断をして戴いた。 その事実の重さを見逃してはならない。 連合国内には昭和天皇の処刑を求める声が強かった。


日本に対し、生殺与奪の権を握っていたアメリカの世論も、80%近くが、(昭和天皇を)「殺せ、拷問し餓死させよ」、「処罰または流刑にせよ」、「裁判にかけ有罪ならば処罰せよ」「戦争犯罪人として扱え」等の意見だった(1945年6月のギャラップ世論調査)。


「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」というお言葉は、決して口先だけのことではなかった(このご発言を否定する古川隆久氏の異説が史料的に成り立たないことは拙著『皇室論』参照)。 出席者の誰もが泣いていた。

昭和天皇は、とりすがるようにして慟哭(どうこく)していた阿南に、わざわざお声を掛けられた。


「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。

しかし、私には国体を護れる自信がある」と。


陸軍省に戻った阿南は、幕僚らに「不満に思う者はまずこの阿南を斬れ」と言い切った。 御前会議を経て閣議が開かれ、「終戦の詔書」の文章が固まり、昭和天皇のご署名、各大臣の副署が全て終わったのは午後11時。

従って、終戦の詔書が下されたのは、改めて言う迄もなく同日、つまり8月14日だった。 これは、現物の詔書の日付を見た人なら、間違うはずはない。

日本が、国家として正式に終戦の意志を確定したのは、この日だった。 しかし、翌日の「玉音(ぎょくおん)放送」の印象が余りにも強い。 なので、「8月15日」と思い込んでいる人が意外と多い。

閣議の後、阿南は正装で首相室を訪れ、鈴木首相に折り目正しく挨拶。 それから陸相官邸に戻り、潔(いさぎよ)く割腹(かっぷく)自決を遂げた。

15日午前5時に短刀で腹を切り、介錯(かいしゃく)を断ったので、絶命したのは午前7時過ぎだった。 遺書には「一死以(もっ)テ大罪ヲ謝シ奉ル」とのみ。 日付は「昭和二十年八月十四日夜」。 署名は「陸軍大臣 阿南惟幾(花押〔かおう〕=図案化された書き判)」。 それに「神州不滅ヲ確信シツツ」と書き添えてあった。


辞世の和歌。 「大君の 深き恵みに 浴(あみ)し身は 言ひ遺す(のこ)すべき 片言(かたこと)もなし」。こちらの署名は「陸軍大将 惟幾(花押)」となっていた。 どちらにもベッタリと血糊が着いていた。

この阿南の自刃(じじん)は、陸軍内部の抗戦派の動きを抑止する、 大きな力を持った。 その事実も忘れないでいたい。


勿論、あの戦争を、秩序を失わず、整然とした終結に導く上で、決定的な役割を果たしたのは、昭和天皇が終戦の詔書を自らお読みになった「玉音放送」の威力に他ならなかった。


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