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  • 執筆者の写真高森明勅

「感染者数」という幻想

「感染者数」という幻想

「感染者数」という幻想 メディアは連日、新型コロナウイルスの感染者数を大々的に報道。

人々はそれに一喜一憂しているように見える。

しかし、正確な意味で感染者数の変化を掴むのは、常識的に考えて不可能(!)ではないか。


そもそも、国内の感染者数の“正確な”数値を把握する為には、どうすれば良いか。

国内にいる(国民も外国人も含めて)全員に対して、“一斉に”PCR検査を実施する他ないだろう(検査の精度の問題、偽陽性・偽陰性の問題は、一先ず大目に見て)。

もし検査日が“ズレ”ると、別の日に検査した分は、既に変化(増減)があった結果かどうか、判別できなくなる。

しかし、「国内一斉検査」なんてことは勿論、不可能だ。

つまり、変化を測る「スタート時点」での感染者数を確定すること自体が、無理。

更に、感染者数の“変化”を知る為には、その後も継続して、同じく国内の全員を対象とした一斉検査を続ける以外に、方法は無いだろう。

当たり前だが、そんなことは絶対に出来っこない。


他に、一部の人々を対象とした抗体検査の結果から、類推によって全体の感染者数を推定する、という方法もありそうだが、感染しても抗体が出来ない場合がしばしばあるのなら、これも当てにならない。

要するに、正確な感染者数と、その変化を知ることは元々、不可能なのだ。

では、メディアが報じている数字は何か。


任意の、ごく限られた人々を対象にPCR検査を実施して、“その中で”たまたま陽性反応が出た人の数に過ぎない。

その意味では、前々から感染していた(ほとんどは無症状の)人々の“氷山の一角”ということになろう(言うまでもなく、検査した日に急に感染したという人は余りいないはずだ)。

従って、その時の検査対象の人数の多少や、対象とした人々の感染可能性の高低などの「前提条件」によって、結果は大きく変わってしまう。

実態として、全体の感染者数が減少を続けている時でも、検査対象を感染可能性の高い人々にシフトさせたり、その数を多くすれば、増加しているように見えてしまう。

学校の持ち物検査を思い出してみれば分かりやすいかも知れない。


もし、新学期の初日に、手抜きで3人だけ検査して、3人とも忘れ物がなく、2日目に全校生徒を対象に検査を実施して、10人の忘れ物をした生徒がいたとしても、それで忘れ物をする生徒が“激増”したことにはならない。

検査対象者の数と対象者の属性など、前提条件についての情報を伏せて(!)、結果の感染者数のみ“単独”で報道しても、実態とは無縁な間違った印象を与えるだけだ。

無意味というよりも、率直に言って有害ではないか(無駄に恐怖心を煽り、社会と経済に甚大なダメージを与える)。


それよりも、感染状況「全体」の実態とその深刻さの程度を、ストレートに示すデータが“別に”ある。

それは死者と重症者の数。これらは、何よりも「全体の実数」を正確に(!)知ることが出来るのが、“強み”だ。

それらの1日ごとの数値が、どの程度、増えているのか、又は減っているのか。

その増減のペースはどうなっているのか。

メディアが、情報として不完全で欠陥がある“感染者数”(この表現自体、既にミスリーディング)ではなく、確実性が遥かに高い死者数と重症者数のデータさえ、キチンと提示してくれさえすれば、多くの人々が「事態の真相」を正しく掴むことが出来るのだ。


このところ、感染者数の多さ(?)ばかりが取り沙汰されている東京都の場合、死者の数は6月24日に2名が亡くなられて以来、現在までゼロ(!)。

重症者も7月13日時点で6名(!)だ。

都民全体の数の多さと比較して、この数字をどう評価すべきかは、改めて言うまでもあるまい。

客観的に言って、目の前の「現実」を正しく理解する為には、これらのデータの方が格段に重要なはずだ。


多くのメディアは何故それを正確に伝えようとしないのか(東京都当局もしかり)。

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