国家秩序の頂点 天皇には歴史的に3つのお立場が認められる。
これまでも繰り返し指摘して来た。
①皇祖(天照大神)の“系統と精神”の正しい世襲継承者
②国家の公的秩序の頂点
③国民結合の中心
これらのうち、①は初代天皇とされる神武天皇以来のお立場と言える。
以来、一貫して揺るがない。
③は推古天皇(33代)から持統天皇(41代)に至る間に形作られた。
但し、その後の歴史の展開の中で、そのお立場が曖昧化した局面もあった。
例えば、天皇と国民(公民)の関係性を総括する大嘗祭が中断した時期などは、その最たるものだろう。
これらに対して、②のお立場はいつ確立したのか?
大義名分論を振りかざせば神武天皇以来という見方になるのかも知れない。
しかし、それは実態とはいささかかけ離れた話になってしまう。
古事記や日本書紀には、崇神天皇から応神天皇(15代)にかけて国内の統一が進み、朝鮮半島への勢力伸長があったと伝える。
これは、概ね考古学上の知見やシナ・朝鮮の史料でも裏付けられる。
古事記はその期間を中巻に収めた。応神天皇の次の仁徳天皇(16代)から下巻としている。
古事記・日本書紀は、仁徳天皇を理想的な君主として描き、一致して「聖帝」と称える。
記紀の歴史観では、仁徳天皇こそ②のお立場を確立した天皇と見られていたのかも知れない。
一方、現在の歴史学では雄略天皇(21代)を王権の“画期”と位置付ける見方が有力だ。
拙著『日本の10大天皇』でも、独自の視点から同天皇を「並びなき君主」と評価した。
先頃のわ即位礼正殿の儀で用いられた高御座(たかみくら)の源流に当たる「壇(たかみくら)」に昇る即位の儀式が、史料の上で最初に確認できるのも、この天皇の時だった。
或いは雄略天皇こそ、②のお立場を確立された君主だったのかも知れない。
万葉集の巻頭にその御製(ぎょせい)と伝える和歌を収めているのも、同天皇が古代の人々にとって特別な君主だったのを窺わせる。
その後、推古天皇の時に「天皇」というわが国独自の君主の称号が定まった。
以降、国家秩序の頂点(最高権威)という位置は、時代の変転を超えて現代まで維持されている。
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