
性別を超越される「天皇」
これまでの最後の女性天皇は江戸時代の後桜町天皇(117代)。 明和元年(1764年)に大嘗祭を執り行っておられる。明和の大嘗祭については、同天皇ご直筆の『後桜町天皇シン(ウ冠+辰)記』(京都御所東山御文庫)やご装束の調進に携わった山科(やましな)家当主の『頼言卿記(よりとききょうき)』(自筆原本、国立公文書館内閣文庫)など、当事者によるその時の記録(第1次史料)が現存する。 それらの極めて信憑性の高い史料を元に、同大嘗祭を巡って実に興味深い事実が報告されている(宍戸忠男氏『神道宗教』196号所載論文)。後桜町天皇は心身をお清めになる廻立殿(かいりゅうでん)までは、御五衣(おんいつつぎぬ)・御唐衣(おんからぎぬ)など、明らかに女性の装束をお召しだった。ところが、同殿で男性天皇と同じ「御祭服(ごさいふく、御斎服とも)」にお召し替えになって悠紀殿(ゆきでん)での神事(しんじ)に臨まれた。 それが済むと廻立殿で又、女性の装束にお召し替えになり一旦、常の御殿(清涼殿)にお戻りになる。更に主基殿(すきでん)での神事に当たっても、同じように廻立殿で御祭服にお召し替えになっていた。 ここで注目すべきは、男性天皇なら冠(かんむり)を被(かぶ)られるのに、女性らしく釵子(さし=かんざし)を終始お着けのままだった点だ。これは、同天皇がことさら“男装”されたのではなかった事実を示す。そうではなく、御祭服は男女いずれであれ、最も大切な神事に当たって「天皇が」お召しになるべき装束だった。 なので、それにお召し替えになったに過ぎない。つまり、天皇の最も大切な祭祀である大嘗祭に当たり、特にお召しになる御祭服という装束それ自体が、天皇という至高の地位にとって、男女の区別など“二の次”に過ぎない事実を証明しているのだ。「男尊女卑」が通念になっていた江戸時代での事実だけに、重大な意味を持つ。