• 高森明勅

帝国憲法への評価

帝国憲法について、これまでややもすると 公平な評価がなされない傾向が強かった。 そうした中で、以下のような言及には注目すべきではあるまいか。 「昭和に入って、1930年代になると国際政治の上に、 はげしい激流情況が現れた。 独裁主義の諸国がおそるべき威力をもって、台頭してきた」


「この国際政局の大きな波濤が日本にも及んできたのは当然だった。 日本の軍部や官僚が、この時代にドイツの右翼独裁主義の強大な 影響力のもとに入り、近代憲法の原則を少なからず傷つけた歴史は、 否定することができない」


「左翼独裁主義も右翼独裁主義も、近代憲法の共通の原則 ともいうべき自由の人権を、まったく無視するというより 自由の思想を敵視した」


「日本でもこの時代に、近代憲法国には、ふさわしからぬ 強圧政治の現れたことは事実である。 けれども、それは決してドイツやソ連のような猛烈な 程度にまで行くことはなかった。 東条政権の強圧政治が、はげしいものだったとはいっても、 ヒットラーやスターリンのそれに比すれば、まったく

ものの数ではなかった。 政治的犠牲者の数は、万分の一にも達しなかった」


「この差は、帝国憲法が存続したところに、その主たる理由がある。 ヒットラーは、自由なワイマール憲法を、たちまちにして破砕してしまった。 スターリンは、近代憲法の自由の諸原則などは、はじめから 『ブルジョア的』なるものとして無視した」


「日本では、傷つきながらも近代憲法としての 帝国憲法が生きつづけていた」


「憲法は明らかに独裁強行に対する大きな妨げではあった。 しかし時の権勢を誇る将軍も、ナチス主義者も日本では公然と 帝国憲法を正面きって否定し、非難することは許されなかった」


「帝国憲法は、明治維新の輝かしい歴史の所産であり、 それは1世紀にわたる日本国民の政治的良識の結晶であるとの 大きな重みがあった。それは、その歴史的な国民良識を結集して、 神聖なる明治天皇が欽定された不磨の大典であるとの 不抜の権威をもっていた。一時の権勢家や流行学者の力では、 なんともならない存在であった」


「ドイツやソ連の政治的な大量虐殺の猛威を、 リアルに直視しえない日本人は、戦時下日本の強圧政治をもって、 帝国憲法の罪であるかのように思っている。 これは大変な見当ちがいである。 独裁のあの怒濤の前には、ワイマールの自由憲法が、 なんらの抵抗力もなく破砕された政治力学の法則を考うべきなのだ。

日本には帝国憲法があったればこそ、あの怒濤の時代にも 1つの歯止めができ、最後の人権の保障が、からくも保持されたのである」


「戦時の日本で、政治的大量虐殺や、流血の粛清の行われなかった のは、近代憲法としての帝国憲法に、不抜の根があり、決定的な 精神的権威があったからだ」


「1930年代の独裁主義の怒濤のなかにあって、 帝国憲法は傷つきながらも、近代憲法として作用してきた」


「どの内閣も、ヒットラー、ムッソリーニやスターリンのように、 独裁永久政権を期待することはできなかった。 憲法は、権力の集中をきびしく禁じており、陸軍の典型的な 独裁政権として有名な東条内閣でも2年あまりしか存続しえなかった。 ソ連やドイツ、イタリーのような強固な永続する独裁政権は、憲法が許さなかった」


「ただこの時代の議会政治家が―無産政党の社会主義者をふくめて、 あまりにも無気力で消極的だったので、憲法を有効に用いることが できないで、独裁的風潮を強めたということはできる。 いかに憲法が議会権限や人権を保障していたとしても、 国民の間にそれを固守する気風がなければ、

民権は亡ぶるのほかない。

法典にいかなる条文があっても、 生きた人間がそれを守って戦わないかぎり、 それは死文とならざるをえない。 1930年代の日本に独裁政治の色彩が生じ、 それを抑止することができなかった責任は、 帝国憲法そのものの条文にあったというよりも、 むしろ議会政治家の無気力と人民の思想

そのものにあったと評すべきであろう。 (昭和初年から、すでに男子のみではあっても、 普通選挙が行われていたし、ある程度の選挙干渉は

あったとしても、現代の数多い独裁国で見るように、

国民各人の自由秘密投票が妨げられたことはない)」 (葦津珍彦氏「憲法の思想と政治の力学」) 現代の日本人にとっても耳の痛い、傾聴すべき指摘だろう。

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